三熊山城 所在地 兵庫県洲本市
県道76号線沿い洲本温泉街後背
区分 山城
最終訪問日 2003/6/7
三熊山城こと洲本城上の城の縄張図 一般に洲本城と言えば、三熊山頂にあるこの城と山麓の平地にある江戸時代の平城の2つを合わせて呼ぶが、両者は歴史的に連続しておらず城の性格も全く違う為、敢えて三熊山城と洲本城に分けた。
 この三熊山城は、その名の通り洲本市街の南にある三熊山にあり、三熊城とも呼ばれるが、通常は上の城と呼ばれているらしい。ちなみに麓の洲本城は下の城と呼ばれる。
 淡路は昔、淡路国として一国を成し、淡路の語源が阿波路であるように四国と本州を結ぶ交通の要衝であった。
 洲本城の築城は大永6年(1526)安宅治興によるが、安宅氏は紀州熊野の海賊で、清和源氏小笠原流とも、かつて瀬戸内に勢力を持っていた橘氏の流れともいわれる。鎌倉末期の頼春の頃に熊野に本拠を置いたが、南北朝時代には室町幕府2代将軍義詮から海賊退治を依頼された書状が残っており、この時淡路島に進出し、功によって阿波にも地頭職を得て紀伊水道一帯に勢力を誇ったという。以降由良を本拠とし、島内8ヶ所に拠点を置いて一族を配したとされ、そのひとつが洲本であった。
 戦国時代、安宅氏は細川氏配下の淡路国人衆として水軍を率いたが、洲本城が築城された頃から内訌が発生して勢力を弱め、後に細川家中で勢力を伸ばして主家を圧倒した三好長慶が、十河家に一存を養子として送り込んで讃岐を固めたように、弟の冬康を安宅家の養子として送り込み、三好配下となった。三好氏は安宅氏の水軍を得て、畿内と本拠阿波を結ぶ淡路の支配と大阪湾の制海権を握ったが、やがて冬康は松永久秀の讒言によって謀反の疑いをかけられ、河内飯盛城で暗殺された。
本丸大手虎口 冬康の跡を継いだ子の信康は、信長が畿内から三好氏を駆逐するとこれに従ったが、次第に毛利氏寄りに傾いた為、天正9年(1581)に秀吉による征討を受けた。当主となっていた信康の弟清康は、支城の由良城が落ちると敵わぬと見て降伏開城し、そのまま信長に謝罪の会見をしてすぐ病死したとも、紀伊国安宅に戻って没したとも伝えられている。
 この後、洲本城は天正10年(1582)頃に土着の水軍菅達長によって一時占領されるものの、本能寺の変後に秀吉が仙石秀久を差し向けて奪い返し、四国攻めの拠点とした。この時、城は侵攻拠点として修築されたが、現在残っている城の形は、天正13年(1585)の四国征伐後に城主となった脇坂安治によるものである。その後、安治は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍に寝返って命脈を保ち、慶長14年(1609)に伊予大洲へ転封となったが、城は藤堂高虎の預りを経て翌年に池田輝政の三男忠雄が領すこととなり、由良城に本拠を移して廃城となった。
 元和元年(1615)の大阪の陣後、阿波の蜂須賀至鎮に淡路一国の加増があてがわれ、筆頭家老の稲田氏が寛永8年(1631)に由良から洲本へ本拠を移し、麓にお居館と呼ばれる御殿を造営した。三熊山の頂上の城には詰としての機能をある程度残していたとは言え、もはや太平の世であり、以降は下の城が洲本城、つまり政庁として機能した。
 現在は公園として整備され、城の形をした展望台が建っているが、これは昭和3年に建てられた最も古い鉄筋コンクリートの模擬天守で、当時1万円をかけて建てられたらしい。今から見ればちっぽけな感じがするが、当時としては多分すごかったのだろう。また、夜にはこの天守がライトアップされ、三熊山の良いアクセントになっている。
本丸から西ノ丸への虎口と展望台の模擬天守 その他に往時を偲ばせるものは石垣ぐらいでしかないが、一説には、本拠徳島城は領国の大きさに比べて堅牢な施設が少ない為、有事の際には畿内に近いこの洲本城を拠点として水軍で京大阪に押し出すという秘策が、隠居の身ながら自ら城地の検分をした至鎮の父家政にあったとされ、麓を整備した時に山上の城も増築改修し、後の古城破却の命令にも草木に埋もれさせただけで本格的な破壊はしなかったという。
 三熊山の要害にある城だけあって、天守の姿をしている展望台からの眺めはなかなか良く、洲本市内から大阪湾までを一望できる。本丸跡には売店となぜか鉄棒があり、7年前に訪れた時には何気に蹴上がりをしたのだが、今回はできなくなっていた。城は7年たっても変わらないが、自分自身に衰えは確実に迫っているらしい。恐ろしいことだ。