俎板山岩屋城
俎板山岩屋城
所在地 兵庫県淡路市
神戸淡路鳴門道淡路S.A.北西2.5km
区分 山城
最終訪問日 2013/9/16
俎板山岩屋城の跡に立つ松帆岩屋温泉から明石海峡の眺め 淡路島北部の岩屋には、岩屋城と呼ばれる城が2つある。その内のひとつがこの城で、俎板(マナイタ)山にあったことから、便宜上、俎板山岩屋城とした。また、山は松尾山とも呼ばれたことから、松尾城ともいう。
 淡路島北端の松帆の浦は、瀬戸内海から大阪湾までを見通せる海路上の要衝で、古くから争いの際には重要視されてきた。それは、近世に松帆台場が構築されたことでもよく解る。源平合戦の時代には、大宮蔵人源実春が養和年間(1181-82)頃に松帆を領していたことが見え、当時は源氏ながら平家に服していたようだ。この後、実春がどのような行動を取ったかは不明だが、淡路冠者と呼ばれた兄義久、加茂冠者と呼ばれた従兄弟の義嗣は、平家に対して挙兵して寿永2年(1183)に滅ぼされており、これ以降の史料に実春の名が見えないことから、同じような運命を辿った可能性がある。また、岩屋城に関しては、要衝であるが故に、この頃から城の原型のような見張台などがあったのかも知れない。
 城の築城時期は不明だが、名前が明確に登場するのは戦国時代で、永禄年間(1558-70)に安宅八家衆のひとつとして岩屋城主安宅宗景の名が見える。安宅氏は、頼藤の代の南北朝時代に将軍足利義詮の依頼を受けて海賊討伐の名目で淡路島に入部し、後には島内8ヶ所に城を築いて一族を配したという。入部後の頼藤は、南朝として活動することもあったが、その子孫は管領として絶大な権力を持った細川氏の庶流、淡路細川家に属したと思われ、永正16年(1519)に淡路細川氏の尚春が阿波細川家の家臣三好氏に滅ぼされた後は、淡路を掌握した三好氏に従った。そして、三好氏から安宅氏に冬康が養嗣子として入り、三好氏の一門となるのだが、この一族家臣として前述の安宅八家衆の名が出てくるのである。
 安宅氏に入嗣した冬康は、淡路水軍を率い、兄三好長慶の政権確立に貢献したのだが、後には長慶が精神を病んだせいもあって、謀反を疑われ、自害を命じられた。これには、三好家臣松永久秀の讒言があったともいう。冬康自害後の家督は嫡男信康が継ぎ、引き続き淡路水軍を統括したのだが、長慶没後の三好家の内訌と、信長の上洛によって三好氏の勢力が衰えてしまった為、最終的には信長に味方している。
 信長は上洛後、将軍足利義昭の守護者として畿内へ影響力を及ぼして行ったが、擁立した義昭との関係は早々に破綻をきたし、やがて信長包囲網が敷かれてしまう。これに参加する毛利氏は、本願寺救援の為に水軍を大阪湾に進出させ、木津川河口で2度、織田水軍と対決することになるのだが、その合戦に先駆けてこの岩屋城で戦いが行われ、天正4年(1576)に毛利軍の攻撃で落城している。こうして城は安宅氏の手から離れ、本願寺方であった雑賀衆が入城し、浜には毛利水軍が駐留したという。この頃、この毛利水軍を攻撃するよう、摂津を領する織田家臣の荒木村重に命が下っており、織田方としても岩屋を押さえられたことは懸念だったようだ。
 その後、仔細は不明ながら、織田方と毛利方に分かれた淡路衆の中で最初に明確に毛利方に属した菅達長が岩屋城に入り、同時に児玉就英や香川広景といった毛利方の武将も派遣されて城を守っていたようだが、天正9年(1581)には織田家臣の池田元助や羽柴秀吉に攻略され、城には池田元助が残って在城したという。これは、織田軍による四国征伐の地ならしであったが、翌同10年(1582)6月に本能寺の変が起きると織田家の領国は動揺して四国征伐どころではなくなり、淡路ではその混乱を衝いて洲本城などが達長に落とされた。この時、岩屋城も織田方の手を離れたようで、同年に再び秀吉によって開城させられている。
 その後、対岸の明石郡の領主であった間島氏勝が秀吉の天下統一の過程で城主となったことが太閤記に見え、文禄3年(1594)には志知城主加藤義嘉に岩屋領が加増された。慶長3年(1598)頃には秀吉に服属した達長が再び城主として1万石を領しているが、後に伊予に転じており、以降の城の歴史は不明となる。海賊停止令が出た後の事でもあり、海上の見通しは良くても城下町を展開できない城は、本拠地としては不適と判断されて使われなかったのだろう。
 現在の城跡は、遺構が近代の砂利の採取によって消滅し、スーパー銭湯型の温泉施設である松帆の郷が建っている。この施設の近辺は、砂利採取場の跡らしく施設の敷地以外にも大きな削平地があり、完全に削り取られた後という地形だった。施設は明石海峡大橋の眺望を売りにしていたが、それだけがかつての城の存在意義と重なる部分なのかもしれない。