上月城 所在地 兵庫県佐用町
JR上月駅南800m
区分 山城
最終訪問日 2005/10/27
上月城本丸跡と赤松政範らの追悼碑 上月城は赤松一族の上月氏が築いたが、上月氏は赤松氏が勃興する南北朝時代以前に分かれた一族である。
 城は、足利尊氏の室町幕府創設に功のあった景盛によって建武3年(1336)に築かれたとされるが、諸説あってはっきりとしない。また、当時の城は現在の城がある荒神山ではなく、山向かいの太平山にあった。
 その後、上月氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏とともに滅亡し、庶流の満吉が赤松家再興に貢献した。また、戦国時代末期には上月満秀が赤松義祐を支えているが、満秀はすでに上月城の城主ではなかったようである。また、上月城の詳しい動向も不明で、天文7年(1538)頃には尼子氏による播磨侵入が大規模に行われ、上月城もその影響を受けたはずだが、よく分からない。
 次に詳細が明らかになるのは弘治2年(1556)で、赤松政則の孫とされる赤松七条家の当主政元が城主となり、西播磨殿と呼ばれて大内氏や陶晴賢、毛利元就の軍勢を撃退したというが、城主就任はともかく、この事跡は信憑性に欠ける。
 信長の勢力が播磨に及んだ天正5年(1577)頃、上月城城主は政元の子政範で、父と同様西播磨殿と呼ばれていた。政範は秀吉からの最後通牒を拒否し、毛利方の宇喜多直家へ付いて秀吉軍を迎え討ったのだが、宇喜多勢の攻撃に屈してその影響下にあったという事情がこれ以前からあり、去就は確かに難しかった。もし、織田家に属したとしても、播磨と備前、美作の国境付近にある上月城は、やはり最前線となっていただろう。
上月城縄張図 上月城周辺には、福原城などの支城も多くあったが、侵攻してきた秀吉軍は大軍でそれらを潰し、援軍の宇喜多勢が奮戦するも上月城は落城した。そして、政範は一族や家臣と共に自刃したが、これ以降、激しい攻防戦が続く。
 上月城を落とした秀吉は、志願した山中鹿之助幸盛を城主に置いたが、その留守中に宇喜多直家はすかさず奪回して家臣真壁彦九郎を置いた。しかし、幸盛が尼子勝久と共に戻ってくると彦九郎は逃げ落ち、労せずして再び尼子主従が上月城に入った。だが、直家も上月城を重要視していたらしく、再び奪回すべく出陣してきた為、尼子主従は一旦城を放棄し、直家は上月氏の流れと思われる上月景貞を城主にしたが、今度は秀吉自ら兵を率いて城を落とし、景貞は討死したとも切腹したとも伝えられている。
 この後、再び尼子主従が入城したが、奪回を目指す直家は毛利家に援けを請い、山陰山陽の兵3万余が動員された。秀吉も囲まれた上月城へ出陣し、明智光秀や荒木村重といった織田家の諸将も援軍に参じたが、数で勝る毛利軍に手を出せず、指をくわえて眺めるしかなかった。やがて、信長から三木城攻略に専念せよとの命令が下り、秀吉は尼子主従を見殺しにせざるを得なくなった結果、城は天正6年(1578)7月に尼子勝久の切腹で開城降伏し、幸盛も毛利軍に連行されて高梁川の渡しで斬られた。また、上月城は、この攻防の後しばらくして廃城となったらしいが、それは、直家が毛利方から織田方へ寝返って播磨が両勢力の境目ではなくなり、戦術的な重要性が薄れた為と思われる。
 城は、頂上にある本丸から登山口方向の尾根に2段の郭があり、立て札に二ノ丸、三ノ丸とあることから、この登山道が大手道だったのだろう。また、本丸を挟んで逆方向にも数段の郭がある。本丸から尾根続きの搦手方向には細長い郭を挟んで大きな2つの郭があり、この本丸から尾根筋へと続く計4つの郭が主郭を成していたと思われる。
麓にある尼子勝久と山中幸盛の追悼碑 尼子主従にとっての悲劇の城として有名だが、城へ実際に登ってみると、想像していたよりもはるかに規模が小さいのに驚いた。小城といっても過言ではない規模で、尼子家臣立原久綱が勝久の入城に反対したのも納得がいく。まさに虎穴に入らずんば虎児を得ずという悲壮な心境だったのだろう。麓には勝久と幸盛、重臣であった神西元通の供養碑があり、また、本丸には攻防戦での最初の犠牲者である政範の供養碑があるが、尼子主従といい、政範といい、織田と毛利という戦国末期の超大国に挟まれた城だけに、両者に翻弄された武将の供養碑がなんとも切なく佇んでいる。