桂小五郎居住跡
所在地  兵庫県豊岡市
豊岡市役所出石総合北西200m
最終訪問日  2006/8/20
いくつも碑が建っている居住跡 黒船来航によって国内で議論が百出した江戸時代の幕末では、知識階級を中心に尊皇攘夷思想が高まって行った。その先導的な役割を担ったのは、思想的には水戸藩であり、実際的には長州藩であったが、京都での長州藩の振る舞いを快く思っていなかった幕府や公武合体派の公家、京都守護職にあった会津藩、そして独自の路線を志す薩摩藩が結託し、文久3年(1863)七卿落ちと呼ばれる政変が発生した。
 これにより、京都政界での発言力を失った長州藩を中心とした尊皇攘夷派は、翌元治元年(1864)になるとクーデターを計画するなど先鋭化したが、この計画も池田屋事件で新撰組によって阻止され、いよいよ追い詰められていった。桂小五郎や高杉晋作は、この先鋭化した尊王攘夷派に対して慎重になるよう説得したが、結局は上洛して示威的嘆願に出ることになり、長州藩を警戒して禁門を警護した会津藩や薩摩藩との武力衝突の末、敗北した。これがいわゆる蛤御門の変で、戦いに敗れた長州藩は朝敵とされ、第1次長州征伐を受けることとなるのだが、そんな中、なんとか戦場を切り抜けた桂小五郎は京に潜伏するが、いよいよ潜伏が厳しくなると、対馬藩出入りの商人とも対馬藩士多田荘蔵の下僕ともいわれる広田甚助を頼って京を脱出し、甚助の郷里である出石に潜伏した。その時に居住したのがこの場所である。
 小五郎が最初に潜伏したのは出石の別の場所だったらしいが、幕府の探索を避ける為、城崎などに移ったこともあり、甚助が何か商売したほうが良いと考え、この場所で小五郎は広江屋の屋号で荒物屋を営んだ。その時に名乗っていた名前が孝助で、広江孝助、もしくは広江屋孝助というのが小五郎の偽名として資料に残っている。また、京での恋人だった幾松も、やがて出石に呼び寄せてもいる。
 居住跡は、老舗の出石そば屋「よしむら」の横にあり、出石観光の象徴となっている辰鼓楼から北に100mほど歩いた角を左に折れ、数10mのところである。解説板には桂小五郎居住跡、石碑には勤王志士桂小五郎再生之地、そして観光協会のマップには桂小五郎潜居跡と名前はバラバラであるが、その跡を示す碑が幾つも建てられている。それにしても、僅か1年足らずの居住地にこれだけ多くの碑が建っているのは、小五郎を慕う人間が多かったからか、それとも幾松とのドラマティックな再会劇があったせいだろうか。