叶堂城 所在地 兵庫県南あわじ市
南あわじ市役所西淡庁舎北西300m
区分 平城
最終訪問日 2013/9/16
叶堂城址碑 叶堂城は、それまでの三原平野一帯の水軍基地であった数km南の志知城を廃し、水軍基地としての利便性を優先してより河口近くに築かれた城である。
 豊臣政権当時の淡路は、洲本に脇坂安治、志知に加藤嘉明という、七本槍にも数えられた秀吉の腹心が封じられていた。この両将は、水軍大将でもあり、当初は両家の水軍が大坂城の眼前にある大阪湾に睨みを利かせるという体制が敷かれていたわけである。その後、三原平野一帯は、文禄4年(1595)に嘉明が伊予へ転封となった為、秀吉の代官三宅丹後守や石川紀伊守光元(光之)による代官支配の地となった。
 叶堂城は、慶長5年(1600)にこの光元によって築かれた城である。しかし、光元は同年に起こった関ヶ原の合戦で西軍に属したことから、戦後に改易されてしまう。この為、城は未完成なまま廃城となり、非常に寿命の短い城となった。期間や世間の情勢を考えると、城としての実質的な稼動はほとんど無かったのかもしれない。
復元された野面積の石垣 叶堂城の前の拠点である志知城は、淡路水軍の一派野口氏の累代の居城で、大日川を通じて瀬戸内海に繋がり、嘉明も居城とし続けた。この水軍基地としての機能をより重視して築かれたというのが叶堂城であるが、築いた光元は代官という職が示すように吏僚的な武将だったようで、あまり水軍との関係性は見られない。ただ、出身は海の無い美濃ではあるものの長良川の流域で、石川家全体としては水運に従事した経験を持っていたのは間違いないだろう。その経験から、瀬戸内の水運を睨んだ築城、つまり水軍基地というよりは水運海運の物流拠点としての築城だった可能性が考えられるが、どうだろうか。
 余談だが、光元には一時期、お亀の方が側室となっており、後にお亀の方は家康の側室となった。光元の子光忠はお亀の方の子で、その縁から家康とお亀の方の子である尾張藩徳川義直に仕え、後に石河と称して尾張藩士として続いている。
 城は、三原川河口部にあり、東西200m、南北150mの大きさを持っていたが、昭和期の三原川の改修工事で遺構は消滅したという。また、江戸時代に城跡を利用して建てられていた感應寺は、この改修工事で東に300mほど移動している。このような状態である為、現地から当時の城の様子を想像するのは難しい。
穴太衆による石垣復元の碑 現在の城跡は、城址碑が三原川に掛かる御原橋北詰の西側にあるほか、移転した感應寺がその反対の東側にあり、この境内基底部にも石垣がある。ただ、今の境内は、東西200mという城の規模と、300m東へ移転したという距離を考えれば、城地には入っていない計算だ。また、境内は10mほどの台地地形上にあるのだが、周囲には目ぼしい高台が無く、防衛上の理由からも台地が天然地形なら城を築く際には必ず取り込まれているはずで、城地に含まれていないということは後世に成形されたものなのだろう。境内の端には、穴太衆の石垣技術継承者が石垣を再現したとの碑があり、遺構が消滅してしまう為、感應寺の境内に残っていた石垣をそのまま移転して台地と共に再築したと思われる。開発で消滅してしまう城は多いが、当時とは場所などが違っていても野趣のある野面積の石垣があり、城の雰囲気が味わえるというのは、幸運な城なのかもしれない。