感状山城 所在地 兵庫県相生市
播磨道播磨新宮I.C.南5km
区分 山城
最終訪問日 2007/12/8
感状山城本丸 瓜生城とも呼ばれ、鎌倉時代に瓜生左衛門尉によって築城されたという。また、南北朝時代の建武3年(1336)、赤松円心則村の三男則祐が父と共に播磨を固めて足利尊氏を助ける為に築城したとも伝わる。
 この則祐が、白旗城の父と共に攻め寄せる新田義貞に対してこの城を守り抜き、尊氏が九州から東上してくる時間を稼いだ。この時の奮戦に対し、尊氏が感状を出したことから感状山城と呼ばれるようになったという。
 城の歴史は全体的に不明な所が多いが、発掘調査によって多くの建物の存在が判っており、現在残っている遺構は、龍野城の赤松政秀か、その後に所有した宇喜多直家が改修したものらしい。その宇喜多氏は、当初は毛利側として秀吉軍と戦っており、感状山城は天正5年(1577)からの上月城攻防に先がけて落城し、廃城になったとされる。だが、この辺りの事跡も詳らかではない。
 城の構造は、本丸である北端の郭から南へ次段が続き、南郭群と岩場の通路を経て巨大な削平地が西に続く。本丸から次段にかけては帯郭が囲っており、本丸の北西側には幾段かの削平地も見え、主郭部分を厳重に防御していた構造が窺える。
見応えのある南郭群の石垣 二ノ丸と思われる本丸南の次段は相当広いが、現地の標識では北と南に分けられており、部分的に石垣のようなものもあったので、往時も石垣によって南北に区画されていたのだろう。その南は尾根に沿って石垣を備えた郭が続いており、相生市の資料には6段とあったが、先端の犬走りのような部分を含めると7段の削平地が確認できた。この辺りが石垣の最もよく残っている部分で、本丸南の郭直下の大きい石垣もなかなかのものだが、下段の南側にも高さ1mほどの石垣があり、勝手口のような階段付きの城門跡も見られる。
 西に少し離れた郭群を見ると、こちらは小屋のある段を含めて7段に区画されていた。小屋の段だけがやや高く、その下からは50cm前後の石垣で区画されながら緩やかに下がり、その先は南東方向の大手門と南西方向の物見岩に分かれている。また、この北西には出郭があり、更にその北側に搦手があるようだが、残念ながらその先は立ち入り禁止だった。
 城へは、播磨テクノラインと呼ばれる県道44号線近くの羅漢の里キャンプ場から登山道が出ている。この登山道を瓜生羅漢石仏方向に行かず右に折れて山へ入るのが城への道で、非常に整備されている上、入口には木や竹の杖が用意してあり、大した装備が無くても登れるのだが、城内は平坦な部分が多いものの、物見岩付近や南郭郡へ向かう場所は岩場となっているので、靴だけはしっかりしたものが良いだろう。
かなり広い西の郭群 事跡の不明瞭さからそれほど期待をしていなかったのだが、訪れた時はそれと相反する城の規模にかなりの驚きと感動を覚えた。また、城跡に入る登山道はかなり整備されており、下には砂利が敷かれ、柵も完備されていて文句の付けようが無く、城跡もよく手入れされて、下草がほとんど無い。登り易さといい、遺構の大きさといい、散策のし易さといい、城に詳しくない人でも十分楽しめる城跡で、城に詳しい人も、縄張の大きさや荒々しい石垣など、かなり見応えがあり、訪れる価値が非常に大きい城だ。