神出山城 所在地 兵庫県神戸市西区
神戸電鉄緑が丘駅西2.5km
区分 山城
最終訪問日 2019/1/4
神社で見付けた古い時代の石垣は往時の物か不明 神出は割と古くから発展していた所で、鎌倉時代にはこの神出山城のある雌岡山の西南麓に陶窯が営まれていた。陶窯はやがて明石の魚住へと移っていくが、明石郡の主要道として南北に走る三木街道があり、この辺りはなだらかな地形でもあることから、集落は完全には廃絶せず、次第に周囲を耕地化していったのではないだろうか。
 神出の城が史料上で確認できるのは室町時代で、神出城主として神出範次という名が見える。この範次は、室町幕府草創の功臣として知られる赤松円心則村の曾孫にあたり、則村の嫡子範資の系統という。範資は、父の死によって播磨守護を継ぎ、自らが任命されていた摂津守護と兼務したが、僅か1年で急死してしまった為、播磨守護は弟則祐が継ぎ、摂津守護は範資の嫡子光範が継いだ。そして、光範は後に守護職を失い、惣領は名実共に則祐の系へ移るのだが、この光範の次男が神出城主の範次である。また、範次は子元頼に神吉荘を与え、元頼が神吉氏の祖となっていることから、著名ではないにしても、その血筋もあって郷村の小領主という規模ではなかったようだ。
帯郭が再利用された可能性がある南西の不要な削平地 だが、これ以降の神出の城の詳細についてはよく判っていない。また、神出の城としては、この神出山城と平野部の丘陵にあった城の2つがあり、詰城と里城であったのか、それとも全く別の城であったのかなどの関連性も判っていないという。存続期間についても、戦国時代の天正6年(1578)から始まった三木合戦の際に、別所氏に味方した南東5kmほどの端谷城の衣笠氏の動向は窺えるものの、神出氏や三木城の有効な支城足り得た神出城に関する事跡が見えないことから、播磨の各領主が総入れ替えとなった嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱などの影響もあり、この頃には既に廃城になっていたものと思われる。
 城地は、現在は神出神社の境内となっており、削平地としては、社殿や社務所のある頂上部、その北東側にあるほどほどの大きさの駐車場、そして更に北東側にある大きな臨時駐車場の3つの削平地があり、南西側にも帯郭のような平地があった。この内、頂上部と、何も利用されて無さそうな南西の帯郭らしき平地は、往時からの地形を利用したり拡張したりした可能性がある。これ以外の、北東側の駐車場に関しては、現地を見ても判断のしようがなかった。また、境内南西部には、僅かながら古い時代の石垣らしき石塁があるが、これも城郭に由来するものかどうかは不明である。
城跡の雌岡山からの眺望 雌岡山は、近くの雄岡山と共に古代から夫婦神として祀られていた山で、神出富士と称されるように稜線が美しい。だが、山自体は円錐型ではなく、北東から南西にかけてが峰筋となっており、東南側はかなりの急斜面で、往時はこの急斜面が防御力の大きな部分を占めていたのだろう。今では、それを生かして神社境内には展望台が設けられており、眺望が非常に素晴らしい。麓の農村地帯から、西神の近代的な街並み、そして明石海峡大橋から淡路島にかけての海までも望むことができ、小一時間眺めていても飽きない風景だった。