出石城 所在地 兵庫県出石町
町役場近く
区分 平山城
最終訪問日 2011/10/30
出石城縄張図 辰鼓楼やそばで有名な出石の城。
 出石周辺は、円山川沿いの但馬国府からほど近く、古代には袴狭地区に国衙が置かれていたとも言われる。また、室町時代には、但馬国の守護を務めた山名氏の本拠地が、出石市街からやや北の此隅山城にあった。
 だが、山名氏の勢力は乱世の中で次第に衰え、戦国時代末期に中央を制した織田家によって当主祐豊が城を追われた後、織田家に臣従することを条件に祐豊が復帰した際には、出石城の後背にある有子山に新たに城を築き、本拠を移している。これは、人心刷新を図ったのと防御力強化が目的だったようだが、これによって城下町の移動なども起こったと思われ、この本拠移動が現在の出石市街の実質的な出発点となった。
 その後、山名氏は毛利氏に寝返って再び討伐され、有子山城は秀吉の家臣らが城代を務めていたが、文禄4年(1595)になって父とは別に領地を与えられていた小出吉政が入部する。吉政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に属して田辺城攻略戦などに参加したが、弟秀家の活躍によって許され、父秀政の死後、秀政が領していた岸和田藩を継ぎ、出石は嫡子吉英が相続した。そして、吉政の死後も同様に吉英が岸和田を継ぎ、出石は吉英の弟吉親が継いでいる。この辺りは少しややこしいが、その後、吉英が出石へ移封となって戻ると、押し出される形で吉親は園部に移って園部藩を立藩し、結果的には園部藩の小出氏が幕末まで続いた。それに対し、出石城を築城した本家筋の小出氏は、吉英から5代で嗣子無く断絶してしまっている。
出石城全景 小出本家の無嗣除封後、出石城には藤井松平家を挟んで信州上田から仙石家が入部し、そのまま維新まで続いた。しかし、幕末が近い天保6年(1835)に、仙石騒動と呼ばれるお家騒動で3万石へ減知されている。ちなみに、名物となっている出石そばは、信州上田から宝永3年(1706)に仙石政明が入部した際、そば職人を連れてきたことに始まるという。
 現在の出石城が形造られたのは慶長9年(1604)で、吉英が統治上の利便性から山の麓を開削して城郭として整備し、有子山城を廃して移ったのが最初である。構造的には、谷山川を内堀として山側に下ノ郭と西ノ郭を置き、その上に二ノ丸、本丸、稲荷丸と山へ階段状に設けた典型的な梯郭式の平山城であった。平地部分は、谷山川の北に三ノ丸を、西ノ郭の西に西ノ丸を置き、その西に出石川、北に外堀を設けて防御を固めていたが、元禄15年(1702)には三ノ丸に対面所が建てられ、居館の機能は完全に平地へと移っている。これには、山からの湿気が多いという理由があったらしい。実際に主郭部東側に大きな排水路があるほか、石垣にも排水設備がいくつも見られ、山からの水の処理に腐心していたことが窺える。
 全体的には、政庁を兼ねた近世城郭という感じで、防御力よりも政庁としての機能性を優先している感じだが、各街道筋には砦にもなる寺院を配しているほか、南東には有子山の山塊が迫っており、決して防御力が薄いといういわけではない。また、有子山の旧城は遺構をよく残しているが、これは修築すれば詰に使えるということも視野に入っていたと思われ、積極的に破却せず意識的に朽ちるに任せたのではないだろうか。
三ノ丸に建つ辰鼓楼 現地で城を見上げてみると、同じように山上から麓へ主郭部を持ってきた鳥取城に雰囲気がよく似ている。石高で比較すると、32万石の鳥取城に対して5万石程度の出石城では大きな差があるが、城の規模で見ると石高ほどの差は無い。つまり、出石城が石高の割に規模が大きかったと言えるのだろう。城の中で特徴的なのは稲荷丸で、本丸の上にあるという立地もさることながら、江戸時代でも自由に参詣できたというから驚きで、平和な時代の城であることの象徴のような存在である。
 城の廃城は早く、維新早々の明治元年に藩主自ら新政府の政策に恭順の姿勢を示す為に廃されているのだが、石垣の保存状態は良く、現在では本丸の隅櫓が2棟建てられているほか、登城橋や城門なども復元され、昔に比べてずっと城らしい雰囲気になった。城の付近には、明治4年に建設されて城下町に時を伝えた辰鼓楼という時計台を始め、前述した出石そばの店や古い城下町などがあり、ぶらっと散策するのには最適な雰囲気だ。15年ほど前に来た時にはそれほど観光地然としておらず、改めて訪れてみるとかなり変わっていて驚いたが、この城下町の雰囲気がやはり人気なのだろう。それにしても、ポスターやツアーパンフレットなどでよく目にすると思っていたら、これほど観光地になっていたとは。観光客が多く、整備された城や城下町も良いのだが、かつての静かな古城の雰囲気も懐かしく、一抹の寂しさを感じてしまうのも不思議ではある。