生野銀山
所在地  兵庫県生野町
JR生野駅東3.5km
最終訪問日  2004/8/22
江戸時代風の銀山入口 石見銀山とも呼ばれる島根の大森銀山と並んで、中世から近世にかけての代表的な銀山。
 開坑は、伝承では平安時代の大同2年(807)とされているが、この頃は地表に偶然現れた鉱脈を採掘する露天掘りが細々と行われていたに過ぎないようで、史料上で本格的な採掘が確認されているのは、戦国時代の但馬の守護山名祐豊が採掘を始めた天文11年(1542)から。
 播磨を支配した赤松氏と但馬を支配した山名氏は、国境であるこの生野周辺でよく争っていたが、銀の産出に目を付けた祐豊は本格的に生野へ進出し、銀山周辺を支配した。だが、下剋上の風潮の中、銀山の支配権はやがて山名家臣で竹田城主の太田垣氏へと移り、後には但馬に進出した織田信長やその基盤を引き継いだ豊臣秀吉、江戸幕府を開いた徳川家康が直接支配した。このように、銀山は支配者階級にとって有力な経済的基盤であり、非常に重要視されていたことがわかる。
 最盛期は江戸時代の17世紀頃で、石見銀山の最盛期もほぼ同じ時期であることから、銀決済であった上方の繁栄に、これら銀山の産出量増加がある程度寄与したと思われる。また、佐渡の金山も江戸時代初期が最盛期で、これら金銀鉱山の開発による鉱物の産出量の増加が、貿易と共に無尽蔵とも思える秀吉の重要な財源となり、そして豊臣政権と比べて貿易の収入が少なかった江戸幕府においては、安定的に政権を運営する上でかなり役立ったことは間違いない。
 銀山は、最盛期に比べるとやや産出量を減らしたものの江戸期を通じて銀やその他の鉱物を生み続け、明治維新後は明治政府の官営となった。その後、西洋式の手法を導入して近代化され、皇室御料を経て明治29年に三菱合資会社に払い下げられたが、昭和48年に閉坑し、現在は鉱山公園として坑道などが公開されている。
 坑道は年間を通じて温度が一定で、訪れたのは夏だったが13.5℃しかなく、何かを羽織らなければ寒いぐらいだった。坑道内部は、近世から閉山するまでの採掘の様子が展示され、特に江戸時代などの近世の様子は電動の人形で再現されていて面白い。20年近く前に訪れた時は、この電動の人形がやけに印象に残ったぐらいだったが、今は光ファイバーによる電飾や映像による説明もあり、なんだか展示も今風になったなという感じだった。
 坑道以外にも、坑道入口の脇を登っていけば露天掘りの跡があり、鉱山資料館や吹屋資料館といった無料の資料館も用意され、興味深い。また、入口近くには、鉱物学者和田維四郎博士が収集した和田コレクションを収める、三菱ミネラルコレクションを展示する生野鉱物館があり、これは鉱物博物館としては国内最大である。