平井山陣所跡
所在地  兵庫県三木市
三木市役所北東2km
最終訪問日  2005/1/19
陣所跡の人工的な平坦地 天正6年から同8年(1578-80)にかけて行われた三木合戦の際、秀吉は包囲網形成の為に周辺に無数の付け城を築かせ、自らは三木城の見える平井山に本陣を張ったが、平井山には今でもその陣所の跡が残っている。
 三木を本拠として東播8郡に影響力を持っていた別所家は、当初織田家に協力的であり、織田家の中国方面軍司令官であった秀吉の指揮下に入って織田家の播磨平定に尽力していた。しかし、対毛利戦について話し合った加古川の軍議で、秀吉が別所氏を尊重せず態度が傲慢であったとして一転毛利方に転じ、その影響下にあった中小豪族と共に織田家に対抗した。
 緒戦で三木城の強固さを痛感し、力攻めでは落せない事を悟った秀吉は、周辺の支城をひとつひとつ潰して三木城を孤立させる作戦に出た為、別所方は補給路を失い、「干殺し」とも呼ばれた籠城戦は、主に毛利からの補給路を確保しようとする別所方と、それをさせまいとする秀吉軍の戦いでもあった。
 この籠城戦の間には大きな戦闘が2度あったが、この平井山周辺も戦場となったことがあり、秀吉の本陣を別所方が襲撃しようとした天正7年(1579)の戦闘がそれである。この戦いは、別所方にとっては乾坤一擲の戦いであったが、有力な将兵の多くを失って敗退し、討って出る余力を失う結果となった。
 現在の平井山には、竹中半兵衛の墓の近くから登る遊歩道と、陣所跡の近くまで入れる車道がある。平井山の山頂付近は、土塁の跡と思われる僅かに盛り上がった土盛があって陣所跡の案内板が建ち、背後は断崖になっている。遊歩道のある方向には人口的に造られたと思われる平坦な地形が数段残っており、土塁の残骸も確認できるが、どこまでが陣城の跡かはっきりとは確認できない。また、やや下った場所にもかなりの削平地があり、陣の跡がそのまま残ったものか、跡地をうまく利用したものかもしれない。
三木合戦布陣図 前述の平井山の合戦では、秀吉軍から別所方の軍勢の動きが丸見えであったことが勝因のひとつになったが、この平井山の陣所跡からは、三木城を始めとした市内が一望でき、指揮は執りやすかっただろう。
 戦国史では比較的有名な平井山だが、今でも地元の認知度は高い。三木合戦の歴史をあまり知らない人でも平井山の名を知っている人は多く、歴史で平井山の名を知っている人間からすると驚くぐらいだが、なんのことはない、山にぶどう農園があってぶどう狩りで有名なだけである。だが、そのおかげで三木市内にも平井山の案内が多く、訪れるのは比較的簡単だ。