波賀城 所在地 兵庫県宍粟市
宍粟市役所北17.2km
区分 山城
最終訪問日 2008/12/13
城址碑と模擬櫓の遠景 波賀城を築城したのは芳賀七郎光節かその一族、もしくは中村光時といわれているが、詳しいことはよく分からない。また、すぐ西の小山にも出城的な砦を築いていたらしいが、古城という地名が残っているので、こちらが初期の城だった可能性もある。
 波賀一帯は、平安時代中頃には伯可荘として岩清水八幡宮の荘園となっており、これら荘園の管理権などを基盤として有力者も育っていたと思われ、それが恐らく芳賀を名乗る一族だったのだろう。この芳賀光節については、名馬伝説なるものが伝わっている。その伝説によれば、波賀城に居していた光節は駿馬を飼っており、その噂が朝廷にまで聞こえ、弘長元年(1261)に勅命によって馬が召されることになった。しかし、光節はこれを惜しんで馬を隠し、それが勅使に発覚してしまった為、命を受けた中村家泰の討伐を受け、滅んだという。この伝説に従うならば、波賀城は弘長元年には存在していたことになる。
 一方、赤松家関係の史料には、波賀城は中村光時の築城としているものがある。この光時は、名馬伝説に登場する中村家泰の一族と思われるが、あるいは家泰本人なのかも知れない。また、宍粟郡志によると、光時が赤松則景八代の孫と書かれている。しかし、現在では、波賀城の中村氏は武蔵七党に数えられる丹党の丹治氏の分かれと考えられており、赤松系中村氏とは違う系統と推測されているようだ。この中村氏は、同じ丹党の大河原氏と共に播磨に入部し、後に両家は婚姻や養子縁組などで同一化したという。
 中村氏初代光時が波賀城に居して以来、20代吉宗に至るまで波賀城を居城とし続け、光時の孫宗広の譲状や15代時隆の譲状では、三方西という名で波賀一帯が出てきており、本貫の地を守り続けていたと考えられる。ただ、戦国末期までが20代というのは多すぎで、嘉吉年間(1441-44)の頃の当主である時隆が15代なのを考えると、南北朝時代から室町時代にかけての系図の信憑性が低いのではないだろうか。早世などで兄弟相続が多かったか、内訌で本宗がはっきりしないなどの理由があるものと思われる。
学習資料館という名の模擬櫓と復元石垣 建武政権期から南北朝時代、室町時代にかけて、中村氏は赤松旗下の国人として家を保ったが、戦国時代に赤松氏の力が低下すると、小豪族の宿命として、中村家もより大きな勢力に頼らざるを得なくなった。それは、守護代として勢力を伸ばした浦上家であったり、天文7年(1538)頃に播磨に侵入してきた尼子家であったりしたが、戦国末期になるとその動向はよく分からなくなる。秀吉による因幡攻略では、当然国境の波賀城も何らかの影響があったはずだが、史料として裏付けるものがない。また、現地の史料では、最後の当主吉宗の所に天正15年(1587)落城とあったが、もはや九州征伐の頃の話で、とても戦乱があったとは思えず、何を指してのことか分からなかった。
 城の眼下を通る国道29号線には、国道429号線との分岐付近に波賀城史蹟公園の案内が出ており、案内に従って波賀市民局の方向へ右折し、道なりにもう1度右へ曲がると、あとは案内通りで城まで行ける。駐車場や遊歩道はびっくりするほどよく整備されており、学習資料館となっている模擬櫓まで徒歩で10分弱程度だ。
 城の縄張に関する説明板が無く、地形からしか判断できないが、西側断崖上の模擬櫓の建つ場所が二ノ丸で、その上の社のある場所が本丸だろうか。櫓内の史料を見ると、櫓のすぐ横の石垣が調査の際に残っていたようで、石垣の初期の様式を踏襲して復元し、その上には塀も復元してある。ただ、城の遺構としてはほとんど残っているものが無く、帯郭のようなものも見当たらなかったので、元々がかなり小規模な城だったのだろう。また、遊歩道沿いには、石垣に使われたような大きな石や平坦な地形、堀切のような地形があったが、山城特有の郭の連続性や石垣に使われた角ばっている波賀石の特徴を考えると、平坦地がせいぜい武家屋敷だったかと考えられる程度で、城本体とはあまり関係が無さそうだった。
 城の規模や遺構はともかくとして、登り易い山城の上、眺めも抜群なので、城好きでなくてもかなり爽快な気分が味わえる城である。遊歩道が非常に整備されているので草木の繁茂もないだろうし、城跡の視界が開けているので山風の涼風が遮られることもないはずなので、夏の登城も勧められるという貴重な山城かもしれない。