郡家城 所在地 兵庫県淡路市
伊弉諾神宮南東500m
区分 平山城
最終訪問日 2016/3/16
郡家城本丸 近くにある伊弉諾神宮の祭主家、田村氏の居城。田村氏館ともいう。
 中世の仏教と神道は神仏習合し、神社内に神宮寺が建てられ、その神宮寺に僧兵を抱えることによって寺社は軍事勢力となった。有名なものは、中央では延暦寺や円城寺、興福寺などであり、地方では白山神社である平泉寺や出羽三山などである。その中には、祭主家が武家化して戦国大名へ発展した阿蘇氏や諏訪氏がおり、郡家城に拠った田村氏も、小さいながらそのような勢力のひとつであった。
 田村氏の出自は不明だが、地生えの勢力ではなく、祭祀を行うために淡路島へ来島した一族とされ、坂上田村麻呂の末裔という。田村麻呂の末裔の田村氏といえば、自称ながら伊達政宗の室の実家である陸奥の田村氏が連想されるが、何らかの繋がりがあるのかもしれない。神宮寺であった妙京寺には、弘安年間(1278-88)に田村仲実が信濃から入部し、社殿を再興したとあり、後に別系同族と思われる初代城主の春方が再び信州より入部して城を築き、祭職を継承したとある。春方の事跡に明応3年(1494)と見えることから、戦国時代初期の人物で、郡家城を築城し、実質的な初代城主だったようだ。
 その後、春良、盛春、村春と代を重ね、戦国時代後期の当主としては、経春の名が見える。経春は、阿波から畿内に進出した三好氏に従い、淡路十人衆のひとりに数えられていることから、淡路の有力な物頭であった。また、後に三好家重臣篠原長房を三好長治が討伐した上桜城の戦いに、淡路衆の一員として参陣している。
二ノ丸と思われる次段にある池は往時の水の手か この戦いの少し前、三好家は、勢力の衰退と織田家の伸張に伴って信長に臣従し、淡路衆を率いた洲本城主安宅信康も織田家に従い、その水軍の一員となっていた。経春も淡路衆の一角として信康に従ったと思われるが、その信康の死後に洲本城主となった信康の弟清康が毛利家に内応した際の動向は不明である。経春は、天正9年(1581)3月に武田征伐への参陣を拒否した為、信長に切腹を命じられたというが、この一文だけでは、信長配下として主命に従わなかったのか、独立的勢力として織田家の威圧に押し潰されたのか、よく分からない。また、経春が切腹したこの年は、11月に秀吉の中国征伐の一環として淡路攻略が行われ、子の村春と康広(康弘)が秀吉軍によって滅ぼされたとされていることから、安宅氏が叛いた頃の経緯は不詳ながら、田村家は最終的には織田家に抗して滅んだようである。この田村氏の滅亡によって、城も廃城になったという。
 城は、伊弉諾神宮の東南、郡家川と河合川の合流点にある丘陵にあり、本丸と見られる最高部は、幅10m、長さ20mほどの楕円形で、南側の背後は堀切で区切っている。標高から考えて、恐らくその先にも郭があったと思われるが、判然とはしなかった。本丸北側から西側に掛けては大きな削平地となる次段があり、居住区画だったと思われる。中央に土橋状の地形があり、その南側は池となっていたが、往時も水の手として利用されていたものだろうか。この次段の北側は2段の帯郭を挟んで堀切があり、その先にも郭がある。この堀切は、そのまま竪堀のように落ち込んで北側の橋に繋がっているようだ。形が非常に明確であり、もしかすると大手であったのかもしれない。
郡家城の北部分を区画する堀切 城跡の丘陵へ向かう道は2本あり、郡家川沿いの道は丘陵裏手へ回る事でき、もう1本は丘陵北側の河合川に橋が掛けられているが、この橋へ向かう畦道は封鎖されていた。ただ、2年半前もその橋の先は藪で、気軽に行ける道では無く、長らく状態は変わっていないと思われる。今回は郡家川沿いから竹薮に入り、崖を直登して城に入ったが、城内は竹林になっている部分が多かった為、城内へ入る困難さに比べると散策はし易いと感じた。城址碑も縄張図も無く、自分の足と目で確める必要があるので、想像力と体力が必要な城である。