御着城 所在地 兵庫県姫路市
JR御着駅北東500m国道2号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2008/6/11
御着城址碑と櫓の外観を模した出張所 秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛孝高が仕えていた、小寺氏の居城。
 小寺氏は播磨守護赤松氏の一族だが、赤松氏隆盛の礎を築いた赤松円心則村よりも前の世代に分かれた一族とされ、その直接の祖は宇野頼季である。頼季は、護良親王の熊野落ちに勇名を馳せたように、則村に重用されて播磨の守護代になるほどとなり、子孫は小寺を称して姫路城の前身である姫山城を本拠とした。その後、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏が一旦滅ぶと、小寺氏も職治が討死して没落したものの、子の豊職が赤松家再興に尽力し、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の最中に姫山城に復帰している。そして、豊職の子政隆が永正16年(1519)に御着城を築き、更にその子の則職が移って本拠とした。
 この則職と子政職の時に勢力を蓄え、小寺氏は赤松氏からほぼ自立した大名となったのだが、この時期に黒田職隆・孝高父子などの有用な人物を取り立てて重用しているのは、血脈中心の古い体質から脱皮していたという証しであり、それが勢力伸張の源泉であったかと思われる。また、その当時、御着城は南播磨の首邑的な存在であり、小寺氏の勢力は、別所氏や赤松氏に並ぶほどであったという。
 その後、戦国時代中後期には、足利家を擁して上洛に成功した織田家の勢力が播磨にも及ぶが、政職は孝高の言を容れて一度は織田方に与した。しかし、三木城の別所氏や荒木村重の叛乱に動揺して毛利方へと寝返り、天正6年(1578)かその翌年に織田方に攻められて落城したという。また、一説には、三木城と村重の有岡城が陥落した後の天正8年(1580)の落城ともいわれる。この時、政職は落ち延びたか、落城前に城を放棄して出奔したと伝えられ、備後の鞆で死去したか、後に孝高のもとへ寄寓したという。また、元主従という縁で、政職の子孫は黒田藩士となっている。
出張所にあった御着城縄張図 小寺氏の没落後、御着城は孝高の預かりとなった。しかし、同年に孝高が山崎へ移ったことや、秀吉の本拠となった姫路に近過ぎたことから、翌年の城割りで他の諸城と共に廃城になったと思われる。
 現在の御着城は、城地が2号線に分断され、ほとんど跡地さえも見分けることができず、僅かに残る堀の跡のみを辛うじて辿ることができるだけであるが、当時は天川を外堀に使い、方形に近い本丸から北西南にかけて二ノ丸を配した城で、本丸の東南側と二ノ丸の北側にも水掘に区切られた郭があったようだ。また、最も多い北側では四重もの堀に囲まれており、播磨の三大名城に数えられていたというから、往時はかなりの規模と威容を備えた城だったのだろう。
 御着城を訪れたのは10年以上振りというぐらい久々で、昔は城跡として何も残っていないという感じだったのに、城跡公園が整備されてきちんと城址碑が建っていることに驚いた。ただ、現在の姫路市役所の出張所から城址公園、国道2号線を挟んだ小寺明神の辺りまでが本丸跡なのだが、出張所の裏に保存されている江戸時代の石橋の下に僅かに窪んだ堀跡があるぐらいで、城としての痕跡はほとんど無い。また、出張所の隣のグラウンドの東に辛うじて堀跡と土塁の痕跡があるが、これも辛うじて痕跡として残っている程度に過ぎず、言われなければ判らないほどだ。出張所の2階には、城跡から発掘された遺物が僅かながら展示され、黒田官兵衛孝高の年表などもあるとは言え、展示と言うのも憚られるほどで、往時の規模から考えるとやや寂しいだろうか。その他、黒田氏関係の史跡としては、官兵衛の祖父と生母の廟所が出張所の横にひっそりと存在している。