船上城 所在地 兵庫県明石市
山陽電鉄西新町駅南西500m
区分 平城
最終訪問日 2000/10/12
城跡に祀られた古城大明神 高山右近重友によって天正13年(1585)に築かれた城だが、古くは室町時代に赤松氏が砦を構え、永禄年間(1558-70)前後には三木城主別所長治の叔父吉親が築いた城があり、林ノ城や林城と呼ばれていた。
 この林ノ城には、三木合戦の時に大屋肥後守が城主として籠もっていたが、秀吉軍によって落城し、戦後蜂須賀正勝や生駒親正が在城したという。
 天正13年(1585)、在地領主の明石則実に代わって高山右近重友が入部し、翌年に明石氏の居城であった枝吉城からこの船上城へ本拠を移した。恐らく右近は、旧城を利用して改修し、惣構えや天守を持つ近世城郭にしたと思われ、船上の名前から分かるように海上交通を意識した城として整備したのだろう。
 右近はキリスト教を棄教しなかった為に在城2年で所領を没収され、周辺は秀吉の直轄となり、黒田長興などが城番となっていたが、関ヶ原の合戦後、姫路に入部した池田輝政の領地となって家老の池田利政が入り、慶長18年(1613)には輝政の甥由之が城主となっている。由之は明石川に堤防を築くなど周辺の整備に尽力したが、大阪の陣後、元和3年(1617)に西国への抑えとして明石には小笠原忠真が入部し、翌年から新たに明石城の築城を開始、船上城は廃城となって資材は明石城へ持ち去られ、その後に残った建物も失火で焼失したらしい。現在も明石城の堀の前に建っている織田家長屋門は、船上城から移築されたものとして残る唯一の建造物である。ちなみに、播州弁で馬鹿の同義語にダボというのがあるが、これは織田家の息子が愚鈍であったことから、織田坊が訛ったものという面白い説がある。
 船上城周辺は宅地化が進んでおり、現在はほとんど面影らしきものを留めていないが、築城の際に堀とした小川が僅かに残り、本丸跡とみられる場所には、古城大明神という小さな社がある。この社が建っている2m程の高さの台地には、そこそこ大きな石がたくさん転がっているので、当時は櫓台もしくは天守閣の石垣があり、石垣に使う巨石は明石城に持ち去られたが、石垣の内に詰めていた石だけが残ったものかも知れない。