絵島ヶ丘岩屋城
絵島ヶ丘岩屋城
所在地 兵庫県淡路市
岩屋港南東200m国道28号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2013/9/16
岩屋港横の絵島とその右手後背の絵島ヶ丘 淡路島北部の岩屋には、岩屋城と呼ばれる城が2つある。その内のひとつがこの城で、便宜上、絵島の向かいの絵島ヶ丘にあることから、絵島ヶ丘岩屋城とした。ちなみにこの丘陵の名は三対山とも呼ばれる。
 この城の城地には、元は絵島明神や岩屋明神と呼ばれた石屋神社があり、その由緒を見ると、後土御門帝の御代に大内義興によって岩屋城築城の為に現在地へ移転したという。後土御門帝の践祚は寛正5年(1464)、即位はその翌年で、明応9年(1500)の崩御までがその治世であり、義興が家督を継いだ明応3年(1494)からの6年間が築城時期にあたるのだが、この時期の大内家は九州へ盛んに兵を出していた時期であり、畿内や淡路と関わりが無い。唯一、将軍足利義材(義稙)による延徳3年(1491)からの六角高頼討伐に、父政弘に代わって参陣しているのが、後土御門帝の在位中で考えられる年代なのだが、これは近江での戦いであり、淡路に城を築く理由が無いと思われる。
 では、いつ築城されたのかと言えば、恐らく、絶大な権力を握っていた管領細川政元に義材が追放された後、その義材を擁立して義興が上洛した永正4年(1507)以降ではないだろうか。この年は、政元の養子達による内訌が表面化した年である。内訌の始まりは、政元が養子のひとりである澄之を推す家臣によって暗殺された事で、これにより、一時は澄之が細川家の家督を継ぐものの、その直後に他の養子である澄元と高国が澄之を破り、結局は澄元が家督を継いだ。だが、内訌はこれで収まらず、義材とこれを保護する義興がこの中央の混乱を好機と見て上洛の軍を起こすと、高国が義興方に転じ、細川家は再び分裂した。こうして、義興も中央政界との関わりを持ったのである。
 義興は、四国に強力な地盤を持つ阿波細川家が実家の澄元と対決する上で、その上洛路となる淡路に楔を打つ必要性を感じたと思われ、また、故郷との通信物流路を考えても、大阪湾の海路は重要であった。このような要求から、監視及び防衛拠点としてこの城は築かれたのだろう。そして、その時期は、同8年(1511)の船岡山の合戦に勝利して、澄元との争いが一段落するまでの事と思われる。
 以後、城の歴史はほとんど見えなくなり、東にあるもう一方の岩屋城が史料によく登場するのだが、この絵島ヶ丘の城も平行して使われていたのではないだろうか。高国と澄元の争いは、澄元の子晴元によって享禄4年(1531)に高国が討たれて終結するのだが、両陣営は堺や伊丹、大物など大阪湾岸に拠点を置いていた為、大阪湾を見渡せるこの城には存在価値があり、また、絵島や大和島など、軍船の係留や風除けにも事欠かない地形を持っていたからである。もう一方の岩屋城とは約2kmの距離があるが、城が海岸からはやや離れており、この城が出城及び船溜として活用されていた可能性は十分に考えられそうだ。
 次にこの城が史料に登場するのは江戸時代で、家康の孫にあたる池田忠雄が慶長15年(1610)に淡路を与えられ、その拠点として築城したという。ただ、この時の忠雄は僅か9歳だった為、父輝政の居城姫路城に留まり、実際の築城は輝政が指示したようだ。輝政としては、未だ健在であった豊臣家の大坂城の情勢を睨みながらの築城であったのだろう。
 淡路の拠点として築かれた近世岩屋城だったが、城としての存在期間は短かった。輝政は、重臣中村正勝を淡路へと送って統治させていたが、慶長18年(1613)に本来の領主である忠雄がいよいよ赴任することになり、由良の成ヶ島に由良城を築いて岩屋城は廃城となっている。そして、岩屋城の資材は、そのまま由良城に転用されたほか、余った石垣などは岩屋の港や川の護岸に使われたという。
 城の構造は、比高20mほどの絵島ヶ丘の頂上部に本丸を置き、その南北に北ノ丸と南ノ丸があるというシンプルな構造だったようだ。南側が最も落差が少ないが、その他の方向は崖状となっており、標高の割には地形による防御力はあると思われる。
 訪れた時は、城の周囲をぐるっと周ってみたが、城跡に入る道が無く、唯一、東側だけが入れそうだったものの、こちらは所有する私有地の為に取り付けたというのが明らかな感じの階段があるのみだったので、入るのは躊躇われた。また、その通路にある街灯も電線が切られ、雑草が茂り放題で、しばらく人が使った形成はなく、放置されているというのが実情なのだろう。眼前の絵島や、大阪湾、阪神間から泉州までの景色が望めそうな場所で、城跡公園として整備すれば良さそうな感じなのだが、その役割は今では高速のサービスエリアが担っているのかもしれない。