中道子山城 所在地 兵庫県加古川市
山陽道加古川北I.C.南東2km
区分 山城
最終訪問日 2014/5/4
中道子山城本丸と赤松城址と刻まれた碑 築城は、室町幕府の重鎮だった赤松円心則村の四男氏範であるというが、一説には則村の三男則祐の曾孫である繁広ともいわれる。氏範は、有力な北朝勢力であった赤松家にありながら兄達との不仲から宮方に付いた武将であり、繁広と比べて時代的にかなり差があるのだが、氏範の時代には中道寺という寺院が山にあったらしく、それを麓に移して構造物を防御施設に流用して使い、後に本格的に本拠地として築城したのが繁広ではなかろうか。また山の名前も中道寺から転じて中道子になったと推測される。
 ただ、これとは別に、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に城主として赤松氏範の流れという志方顕茂の名が見えることや、発掘調査の結果では永正大永年間(1504-28)頃の築城とされたことから、伝承と符合しない部分も多い。城の規模の割に史料が少なく、実際には築城者や築城時期は不詳とするのが妥当だろう。
 中道子山城主と伝わる繁広は、志方一帯を領していた赤松庶流孝橋氏に、同じく赤松庶流大河内氏から養子に入った武将で、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際には、没落した他の赤松一族と同様に繁広も中道子山城を失ったとされる。その後、赤松政則が惣領家を再興し、応仁元年(1467)からの応仁の乱の際には念願の播磨復帰を遂げ、これに付き従っていた繁広の子繁景も復帰して城を再興した伝わるが、これは繁広自身の話だったともいう。いずれにせよ、赤松家臣であった孝橋氏は、宗家と浮沈を共にしたようだ。
 これ以降はその子孫が城に居していたが、繁景の子政頼の時代には守護代であった浦上氏が台頭し、政頼も赤松配下として度々浦上氏と戦っている。この後も管領細川氏の内訌や、天文6年(1537)から翌年に掛けての山陰の覇者尼子氏の侵入など、主家である赤松氏に絡んだ合戦が絶えなかったが、尼子氏の侵攻を機に赤松氏の領国体制が実質的に崩壊してしまった為、この頃から孝橋氏も半独立状態となった可能性が高い。天文18年(1549)に、政頼の子秀光は細川晴元の軍に属し、四国から畿内に勢力を伸ばしてきた三好長慶と摂津三宅城で戦って討死しているが、この時も赤松氏の影響力は限定的で、これも赤松氏を飛び越えて中央勢力と直接結びつくようになった証と思われる。だが、赤松氏の重しが取れたことによって、中央で権勢を得た長慶が播磨の直接支配に乗り出し、秀光の子秀時は侵入してきた三好軍と戦ったが利あらず、やがて弘治年間(1555-58)に佐用へ退いて城も廃城になったという。
中道子山城縄張図 長慶自ら軍を率いて三好家の大軍が播磨に侵攻したのは天文24年(1555)、つまり改元後の弘治元年と同じ年で、中道子山城の廃城年代にも合致するが、あくまで播磨の東部への侵攻であり、前述のような廃城のきっかけとなった戦闘が志方付近であったのかなどは、調べてもよく分からなかった。ただ、退いた先の浅瀬山城も天文年間(1532-55)の築城とされ、三好軍の侵攻と浅瀬山城の築城、中道子山城の廃城が天文末年と弘治初年の1555年で見事に繋がっており、戦闘の有無は別として一連の流れの出来事だった可能性は高そうだ。また、これとは別に、伝承では秀吉による三木合戦の際に落城したともいわれ、その落城伝説が地元には残っているという。ただ、城の規模が比較的大きい割に、織田家側の史料に名前が出てこず、実際には大規模な戦闘は無かったとされている。
 この城は中世山城である為、地形と高低差を防衛力として重視したと思われるが、山頂の本丸は広大な平坦地であり、峻険さが肝要な中世山城から次第に削平地が大きくなる近世山城への移行期の城らしい特徴と言えるだろうか。発掘調査では、築城後すぐに火災があり、その後に規模を大きくして再築されたことが判っている。
 構造としては、北東の最高地を本丸とし、一段下がって土塁で囲まれた米倉、更に下がって二ノ丸と三ノ丸の間を結ぶ、空堀と土橋も備えた大きな削平地を造り、ここから北西にほぼ同標高の三ノ丸が、南東には三ノ丸の高さより下に高低差のある2段の二ノ丸が設けられていた。大手は二ノ丸下段の西側に繋がり、搦手は三ノ丸北西側で、各虎口には石垣の痕跡も見られ、大手虎口は櫓門であったという。また、大手道となる旧登山道を辿ると、途中に非常に峻険な岩場があるなど、城内部分の平坦さから来るイメージとは違い、要害であることがよく解る。
二ノ丸と三ノ丸を結ぶ平場の空堀と土橋 現在は桜が多く植えられており、春などは花見客で賑わいを見せ、それ以外の休日もちょっとしたハイキングにちょうど良い為か、家族連れが多く訪れているようだ。また、紅葉も多く見えたので、秋には素晴らしい紅葉が見られるのではないだろうか。頂上から見える稲美野の眺めは非常に素晴らしく、明石海峡大橋や淡路までが見渡せ、城としての立地条件の良さを証明してもいる。ただ、これだけの好立地で、しかも規模も整えられているのに、戦国末期まで使われ続けなかったのは、個人的には不思議な思いがする城だ。