芦屋城 所在地 兵庫県浜坂町
国道178号線沿い北側
区分 山城・海城
最終訪問日 2001/10/25
 良港の諸寄を押さえる城で、塩冶氏の居城。
 諸寄は江戸時代に日本海航路の風待ち湊として発展したが、もちろん中世でも良港としての機能があり、城と港は重要な関係にあった。城の築城時期は南北朝時代とみられるが、城主であった塩冶氏も諸寄を支配したことから、やがて必然的に水軍としての力を持つようになったという。
 この塩冶氏は、近江源氏佐々木流塩冶氏の末流と考えられる。そもそも塩冶氏は、頼朝に従って功を挙げた佐々木秀義の五男義清が出雲と隠岐の守護となり、その孫頼泰が出雲国塩冶郡を本拠として塩冶を称したのが始まりで、南北朝時代には高貞が塩冶判官として名を揚げた。その高貞の甥通清の四男が周防守であり、この人物か、その子が山名氏に仕えて但馬に住んだらしく、秀吉に滅ぼされた人物も周防守を名乗っていることから、官職名を世襲にしていたのなら恐らくはこの流れと思われる。ただし、その頃から芦屋城が本拠であったかどうかはよく分からない。
 南北朝以降も塩冶氏は山名氏に従っていたようだが、山名氏が因幡と但馬に分かれると、出石の但馬山名氏に従った。しかし、天正8年(1580)から始まった秀吉の但馬因幡攻略戦に抵抗した主家が滅んだ後、降伏した八木氏や垣屋氏が秀吉の先鋒となって攻め寄せると、最後の当主である周防守高清は城を放棄して鳥取城の山名氏を頼った。そして、頼った先の鳥取でも秀吉軍と戦い、鳥取城の出城である雁金城、丸山城と転戦し、開城の時に切腹している。
 秀吉が但馬因幡を征服すると、芦屋城はその部将宮部継潤の支配するところとなり、城代としてその家臣である勝野氏や浅見氏の名が見える。だが、宮部氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属し、戦後に改易されて奥州へ追放された。そして、宮部氏に代わってこの辺りを支配したのは若桜に入部した山崎家盛だったが、この山崎時代の初期には既に城という防御施設としての機能は失われて陣屋が置かれていたらしく、宮部氏の末期か関ヶ原の合戦直後に城自体は廃城となったようだ。
 城は、三方を断崖と海に囲まれた海城で、山容もかなり急峻である。現在は城山公園になっているが、当時と急峻さは変わりなく、その急峻な山容の為か、本丸以外郭らしい郭は残っておらず、堀切も見られない。当時も平坦地や堀切等の人工的な防御機能は少なく、主に地形が防御力として機能した中世の小規模な山城だったのだろうが、もしかしたら遊歩道を通す工事によって失われたのかもしれず、逆に遺構の少ないところを遊歩道が通っているなら、道無き道を散策すれば遺構が見つかるかもしれない。
 公園の駐車場や本丸からは当時と変わらず諸寄を一望することができ、訪れた時は弁当を食べている人が何組かわざわざ登って来ていたが、その気持ちが凄く分かるような素晴らしい景色である。
芦屋城から諸寄の港