浅瀬山城 所在地 兵庫県佐用町
智頭急行久崎駅北西700m
区分 山城
最終訪問日 2007/8/25
展望台となっている本丸跡 天文年間(1532-55)に孝橋秀時が築城した城。
 秀時は、もともと播磨国志方の中道子山城の城主であったが、三好氏の圧力に抗しきれず、弘治年間(1555-58)に浅瀬山城へ退いたという。浅瀬山城の築城が弘治の前の天文年間ということを考えれば、飛び領地を守る城として築城したとも考えられるが、三好長慶の東播磨侵攻が天文の最後の年である24年であることから、中道子山城からの退去を弘治の最初の年、浅瀬山城の築城を天文の最後の年と考えると、全て1555年の1年の出来事として繋がり、強引ではあるが築城や廃城の年代に齟齬も出ない。あくまで検証もしていない想像ではあるが、出来事としてはひとつ流れとなっている上、当時の情勢では飛び地というのは考えにくいということもあり、三好軍侵攻、中道子山城の退去廃城、浅瀬山城築城というのが一連の事象であったとするに十分説得力がある。
 浅瀬山城に退去した後の秀時のその後は不明で、城には赤松配下の諸将が入ったらしく、間島左馬助などが城代を務めたことが見える。天正5年(1577)に秀吉が上月城を攻めた際には、上月恒織が浅瀬山城主として見えるが、恐らくは地元に土着した赤松氏の庶族上月氏の一族だろう。この恒織は、同年に秀吉が上月城を攻略してさらに追撃に移ろうとした時、機を見て秀吉軍の側面を急襲したが、反撃に遭って討死してしまった。そして、秀吉軍はその余力で浅瀬山城を陥落させ、城主を失った城は廃城になったという。恒織が急襲した場所は浅瀬山城から真西の秋里川付近で、浅瀬山城と上月城からは等距離にあり、現在も戦(たたかい)という地名で残っている。
本丸から峰に沿って続く郭 城は、笹ヶ丘公園の後背にあり、公園内には城跡としてではなく展望台とだけ案内が出ている。しかも、距離などは書いておらず展望台というのが道端にあっただけなので、城まで割と近いのかと思ったら、結局休憩を入れながら1時間近くかかるほど遠かった。城へ登る時は飲み物やしっかりした靴など、ある程度装備をしっかりして登ることをお勧めする。
 遺構としては、小さな展望台を備える本丸があり、堀切だったと思われる窪んだ地形を挟んで尾根筋に数段の郭が続くが、上月城を中心とした城郭網の一角を成す小城なので、それほど大きなものではない。その他では、石垣に使われたような大きさの石が登山道沿いに固まって転がっていたが、城と関係するのかどうかはよく判らなかった。
 訪れた時は真夏ということもあって、本丸は草が刈ってあったものの、本丸の周囲は木や竹が大きく伸びており、展望台からの眺めは全く無かった。また、本丸に続く数段の郭は下草も刈られておらず、藪化しており、こちらも十分に散策することができなかった。こんな状況であったので、またいずれ寒い季節に訪れてみたいと思う。