赤穂城 所在地 兵庫県赤穂市
赤穂市役所南900m県道32号線沿い
区分 平城・水城
最終訪問日 2012/4/29
現在の赤穂城周辺図 海際に築かれた海城で、周辺地名にあるように、加里屋城や苅屋城とも呼ばれた。
 赤穂城の前身である加里屋城を築城したのは、播磨守護赤松氏の一族である岡光景とされ、享徳年間(1452-55)のことという。時期としては、赤松満祐が嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で討たれて播磨守護職を山名氏に奪われ、その奪回を目指して甥則尚が活動していた時期であり、則尚の家臣だった光景が赤松側のひとつの拠点として築いたのかもしれない。
 ただ、これは播州赤穂郡史にある記述で、赤穂市史では文正年間(1466-67)から文明15年(1483)にかけて岡光広が築城したと推測している。この説に従うなら、赤松家再興を果たした政則が当主の時代であり、山名氏と赤松氏の播磨を巡る攻防の中での築城と考えるのが妥当だろうか。また、岡氏単体で見ると、元は千種川の支流矢野川流域の若狭野の領主であり、川に沿って下流域へ進出したと考えることも出来る。ちなみに、大鷹城が赤穂城の前身とされる場合あるが、加里屋城へ移る前に岡氏が居城していたのが赤穂北方の有年にあった大鷹山城や大鷹城と呼ばれた城であり、岡氏関連の城ではあるが正確ではない。
 その後の戦国時代の赤穂周辺の歴史は不明確なのだが、恐らく、戦国初期は室津と共に守護代浦上氏が領有したと思われ、浦上氏の衰退後は、上月城や感状山城などの領境の城から推測するに、浦上家臣から台頭した宇喜多氏が支配したようだ。宇喜多氏は、毛利氏から織田氏に寝返って領地を維持したが、信長横死後の天正14年(1586)には生駒親正が赤穂に封じられており、宇喜多氏の支配から離れている。だが、翌年の四国征伐後は、親正が讃岐へ転出した事で再び宇喜多領となった。
本丸大手櫓門 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、西軍主力だった宇喜多秀家は改易となり、播磨は姫路城に入った池田輝政が領し、赤穂にはその末弟長政が入部する。この長政が、入部後に加里屋の古城のすぐ南に単郭で一重の堀を持つ掻上げの城を築き、この城が赤穂城の直接の前身となった。長政が同8年(1603)に備前下津井へ移った後は、代官垂水勝重が在城し、同19年(1614)に千種川より取水する上水道工事を始め、足掛け3年で完成したという。この上水道は、日本三大上水道に数えられている。
 慶長18年(1613)、西国将軍と呼ばれた輝政が没し、播磨西部は次男の岡山藩主忠継に分与されたが、その忠継も翌々年に没した為、輝政の五男政綱が赤穂3万5千石を継いで正式に赤穂藩が成立した。この政綱が寛永8年(1631)に嗣子なく没した後は弟輝興が継ぎ、城も改修されたが、正保2年(1645)に発狂で改易となり、代わって常陸国笠間から浅野長直が入部してくる。
 長直は、入部早々に城の改修拡張を考え、甲州流軍学を修めた家臣近藤正純の縄張で慶安元年(1648)から工事を始め、後には藩に招いた山鹿素行の意見で二ノ丸虎口を変更し、寛文元年(1661)に城を完成させた。これが現在残る赤穂城である。また、長直は移封後すぐに姫路の大塩から浜人を入植させて塩田業を興し、城下町の整備や上水道の改修に取り組むなど、今の赤穂の基礎を形作った名君であった。
 この長直の孫が、元禄赤穂事件で有名な浅野内匠頭長矩である。延宝3年(1675)に僅か9歳で家督を継いだ長矩は、祖父長直と同じ内匠頭に補任され、火消し大名や備中松山城の受け取り、本所材木蔵火番などの職務を務めていたが、勅旨御馳走人を務めていた元禄14年(1701)3月1日に江戸城本丸大廊下で吉良上野介義央に対して刃傷に及び、即日切腹の上、赤穂藩は改易となった。これを発端として、翌年の吉良邸討ち入り、そして更にその翌年の赤穂義士切腹までを描いたのが忠臣蔵である。
三ノ丸大手門の太鼓橋と隅櫓 浅野家改易後、旧臣らは長矩の弟長広を立てて御家再興目指すが、幕府は認めず、翌年には永井直敬が入り、更に4年後には森長直が2万石で入部した。そして、そのまま維新を迎え、明治6年の廃城令で城は廃城となる。城の建物は、廃城の3年後から払い下げで破却されて行き、本丸藩庁は尋常高等小学校校舎として移築され、隅櫓などは荒廃して取り壊された。また、一部の石垣も明治中期の千種川氾濫の復旧と治水に築石として流用されたという。その後、昭和10年代から大手門前の堀や太鼓橋の復旧、天守台の修復など、シンボルとして赤穂城が見直され始め、戦後には赤穂城跡公園の整備で大手門や大手隅櫓、石垣修理などが行われた。そして、本丸にあった赤穂高校の移転で中核部分の復元に弾みがつき、今ではかなり往時の城の雰囲気を感じられるまでになっている。
 城の構造は、加里屋川と千種川を東の防御とし、五角形に近い本丸と内堀を二ノ丸で囲み、その北側に三ノ丸を置く形で、輪郭式に梯郭式の混合と言えるだろうか。本丸には御殿と天守台があり、天守は幕府を憚ってか、それとも財政難の為か、建てられなかったが、天守台の大きさから五重の天守が予定されていたらしい。本丸を囲う二ノ丸は、南北に仕切られ、南側の二ノ丸後郭の南端の水ノ手門は船で接岸可能となっており、海城らしい構造である。また、二ノ丸の北の三ノ丸は、主に武家屋敷が建てられ、大石内蔵助邸があるように上級家臣がここに住んでいた。三ノ丸には門が4つあり、水ノ手門と合わせて5つの門が城外と連絡していたが、櫓が必ず1棟は上げられており、なかなか厳重である。また、縄張図を見ても、一辺が全部直線という所は無く、屏風折れという屈曲や稜保となる突出が必ず設けられており、これは近世的銃撃戦を想定したものだろう。
 大石神社や大石内蔵助邸長屋がある三ノ丸周辺に比べ、城の中心部は散策する人が少ないが、御殿跡の間取りや多聞櫓などが復元されており、城としての雰囲気は十分にある。また、天守台からの眺めはかなり良く、城の縄張も把握しやすい。個人的に気に入ったのは、加里屋川沿いの道で、川と石垣の対比がとても良かった。