大岬旧海軍望楼
所在地  北海道稚内市
稚内市役所北東23.8km宗谷丘陵北端
最終訪問日  2003/7/21
展望台になっている望楼 明治7年の千島樺太交換条約締結後、樺太はロシア領となり、海を挟んで樺太に対向する宗谷岬は、国防上の要地となった。
 江戸時代中後期から明治期を通じ、ロシアは南下政策を採り続け、日本とは江戸時代から交渉が持たれたが、それは、不凍港を欲しがったというのが大きな理由である。だが、その政策は日本にとって非常に脅威であり、明治維新後も朝鮮半島を含めてロシアのと緊張は高まるばかりとなっていた。当時の日本海軍が、そうした情勢を背景として、ロシア海軍の動向監視を目的に北海道北端の宗谷岬に構築したのが、この望楼である。望楼構築は、日露戦争勃発の2年前である明治35年であり、当時の切迫した状況が透けて見えるだろうか。
 その後、望楼は日露戦争前から第二次世界大戦まで使用されたが、終戦と共に使用されなくなり、そのまま廃墟になっていたという。ただ、日露戦争後はロシア革命を経て北の脅威が多少減り、日本は次第に南方や中国大陸を志向するようになった為、重要性は変わらずとも監視の緊張感は薄らいだと思われる。第二次大戦中も、後に破られることになったとは言え、日ソ中立条約が生きており、北の監視は最重要項目ではなかった。
 望楼は宗谷岬後背の台地上にあり、その形はトーチカのような形をした一般的な監視塹壕ではなく、船のブリッジのような形状で、確かに望楼の名が相応しい。現在はブリッジ型の上部が展望台になっており、宗谷岬を訪れた観光客が登り、自分と同じように高台からの風景を楽しんでいた。望楼内部には立ち入ることはできなかったが、最北端の地にある軍事施設に相応しく、防寒の為であろうか、室内から見えるよう180度の方向に窓を備え、土台の部分にも同じく180度に渡って穴が穿たれている。材質は、石材をコンクリートで固めたもので、稚内市の指定文化財として今も風雪に耐え続けており、役目を変えつつもその眺望の良さは変わらず生かされていた。