松前城 所在地 北海道松前町
松前町役場西200m
区分 平山城
最終訪問日 2003/7/28
松前城の復元天守 松前城が完成したのは江戸時代末期の安政元年(1854)で、幕府が松前藩主松前崇広に命じて嘉永2年(1849)から築城させたものである。城の築城や改修に対して非常に敏感であった幕府が、幕命によって築城させるというのは珍しいが、そこには日本近海に出没するようになったロシア船に対する海防上の必要性という背景があり、奇しくも完成したその年は日米和親条約によって箱館が開港された年でもあった。
 松前氏はかつて蠣崎氏といい、その直接の祖は蠣崎氏を継いだ武田信広とされる。伝承では、若狭武田家の出身である信広が陸奥下北地方田名部に流れてきて蠣崎季繁の客将となり、季繁や季繁の主筋である安東政季と共に蝦夷に渡ったという。そして、長禄元年(1457)に蝦夷で起こったアイヌ人コシャマインの乱の鎮定に功を挙げ、季繁の娘婿となって蠣崎氏を継いだとされる。しかし、若狭武田氏に関する資料には信広の名が見えず、また、信広が蝦夷に渡ったのと同時期に、田名部を領していた蠣崎蔵人信純という季繁の一族と思われる人物が南部氏に対して叛乱し、蝦夷に追われたというのが史料にあることから、武田信広と蠣崎蔵人を同一人物とする説も根強い。
 いずれにしろ、信広が松前氏の直接の祖というのは確実で、子の光広の代には、蝦夷を支配していた安東配下の他の武将が没落し、大館に本拠を移して徳山館と称すると共に安東家の蝦夷代官の地位を確立、5代目慶広の時には天下を統一した秀吉に通じ、安東氏に代わって蝦夷を支配することを承認された。この慶広が松前藩の祖となる人物で、慶長4年(1599)には名乗りを松前へと改め、また、秀吉の死後は家康と通じ、慶長11年(1606)には松前城の前身となる福山館を築いている。ちなみに、松前城はこの前身の館の名を取って、福山城や松前福山城ともいう。
 その後、松前藩は米が作れない土地でありながら、地域を区切って交易権を与える事で家臣との主従関係を結び、1万石格の大名として認められたが、蝦夷近辺にロシア船が出没するようになると、幕府は海防上の理由で寛政11年(1799)に東蝦夷を、文化4年(1807)には西蝦夷を直轄化した。その後、文政4年(1821)に再び松前藩に領地が戻されたが、松前城の完成した翌年には函館開港によって再び蝦夷地が幕領化され、松前藩は松前半島南部を領するのみとなっている。この後、松前半島北部は返還されたものの、結局、維新まで旧領の完全回復は叶わなかった。
 戊辰戦争では、明治元年(1868)に箱館五稜郭に拠った榎本武揚率いる旧幕軍からの協力要請を無視した為、土方歳三率いる部隊に攻撃されて落城し、城は翌年に官軍によって奪回されたものの、この2度の戦闘によって城や城下は焼失してしまっている。また、明治6年には、不平士族の暴動が起きた際に拠点にされることを忌避して天守や御殿を除く建物が民間に払い下げられ、石垣の石も港に再利用されたという。そして、国宝に指定されて残っていた天守も、昭和24年に火災によって焼失してしまった。
 城は、海に面した高台の地に築かれ、海防を重視した城らしく海側の防御に重点を置き、本丸、二ノ丸、三ノ丸を擁して2万坪以上の敷地面積を持っていたという。長州の勝山御殿などの居館形式の城は置くとして、和式の本格城郭として築かれた最後の城であり、城内には7つの台場を備えて多数の大砲を配備するなど、戦闘が近代戦へ移行する途上の城郭らしい設備があった。また、財政難の中、無城大名から城持大名に昇格できるという松前氏の意気込みが、この広大な敷地に見えるようでもある。
重要文化財の城門 訪れた日の天気は快晴であったが、午前6時頃という早朝の時間帯だったので人影は見えず、静寂が漂う城内に城門と天守がでんと構え、朝日が照らす芝生の緑にとても映えていた。天守閣は復興されたもので、内部は資料館になっているらしいが、城門は当時のものが残っており、重要文化財に指定されている。だが、最も新しい城の為か、切込ハギの石垣も現代の石垣に近い独特のもので、あまり古さは感じられず、城門も復興されたものと聞かされれば納得してしまいそうな雰囲気があった。