間宮林蔵渡樺の地
所在地  北海道稚内市
稚内空港北東20.8km国道238号線沿い
最終訪問日  2003/7/21
宗谷岬と比べてひっそりとしている間宮林蔵渡樺の地 間宮林蔵が樺太探検の際に渡海した場所。
 日本にとっての樺太の認知は、鎌倉時代末にはあったようで、安東氏が樺太アイヌを率いたともいわれる。また、南北朝時代の甲冑が樺太から出土していることもあり、和人とアイヌとの交流はかなり昔からあったようだ。豊臣政権期以降は、安東氏の家臣から身を興した松前氏が北海道と樺太を管轄し、家臣に交易権を与えて管理させた。
 間宮林蔵の樺太調査以前から、幕府は蝦夷地開発とロシアの南下政策を念頭に北海道や樺太の調査を進めており、最上徳内も参加した天明5年(1785)の調査団の存在が樺太探索としては知られている。その後、国防の観点から寛政11年(1799)に東蝦夷を直轄地とし、文化4年(1807)には樺太を含む西蝦夷を直轄地とした。そして、翌5年(1808)4月13日に間宮林蔵と松田伝十郎を樺太へ調査に向かわせた際の、出航の地がこの場所である。この時、林蔵は死を覚悟して自らの墓碑を建て、流氷の去った海を樺太へと押し渡って行ったという。
 両名の調査では、林蔵が樺太の東海岸を、伝十郎が西海岸を調査し、最終的には最西端のラッカ岬に到達して樺太が島である事の推測を得た。そして、林蔵は一旦北海道に戻った後、再び渡樺して西海岸を北上し、翌年には樺太が大陸の半島ではなく島であることを確認している。この報告結果は、シーボルトによってヨーロッパに紹介され、世界地図に間宮の名を冠した間宮海峡の名が現在に残ることになった。ちなみに、林蔵は樺太が島であるということを確認した後も探索を続け、中国では黒竜江と呼ばれるアムール川下流の満州にも渡って東韃紀行という名の報告をしており、近世末期の冒険家として偉大な足跡を残している。
 現地には、目立つものとしては案内板が建っているだけで、1度通り過ぎてから何かあったなと戻ってようやく発見したほど史跡としては目立たない。訪れた時は夏というのにどんよりとした寒々しい空模様が広がっていたが、林蔵が渡樺した春先はこのような空模様が多かったに違いなく、未知なる北の島へ渡ろうとしていた林蔵の心にはどんな不安が去来していたのだろうか。まして、当時は北海道自体に和人が少なく、物資などの調達には相当苦労したと思われるが、それらの不安を克服して自らの使命を果たさんとした林蔵の胆力には驚嘆するほかない。