五稜郭 所在地 北海道函館市
JR五稜郭駅南東2km
区分 平城・西洋式城郭
最終訪問日 2003/7/27
五稜郭の城址碑 日本において、西洋式城郭として最初に構築された城。西洋式城郭は長野県にあるもうひとつの城と共に日本で2つだけである。
 五稜郭築城の理由は、日米和親条約による箱館開港に伴って北辺防備の必要性が高まった為で、安政4年(1857)に着工し、元治元年(1864)に完成した。城の縄張を担当したのは武田斐三郎で、フランス軍人の影響を受けて西洋式城郭にしたという。
 この城の特徴は、突き出させた複数の稜堡に砲台を据えて砲撃の死角を減らすとともに、砲台の射程外に敵軍前線を下げ、敵軍と城内施設の距離を取らせて守るという思想にあった。これは砲撃の多い西洋での一般的な防衛思想で、五稜郭には1つしか造られなかったが、火力の増強と砲撃の死角減少の為に稜堡と稜堡の間にも更に馬出のような半月堡を構築し、星型を2つ重ねたような形が最終形態となる。このような防衛思想は、それまでの日本式城郭とは大きく違っているが、これは戦国時代の終焉と共に火器類の発達が止まった日本と異なり、欧米では頻発する戦争によって火器が発展し続け、大砲に狙われやすい示威的な建物は姿を消して宮殿という形で独立し、城は砲撃を受けにくい地べたを這うような要塞へと変化した為であった。つまり、五稜郭は城ではなく、純粋な要塞として構築されたのである。
かつては砲台の役割があった稜堡の上部 しかし、この五稜郭には致命的な欠陥があった。五稜郭が戦闘に使用されたのは、外国に対してではなく、榎本武揚率いる旧幕府軍と新政府軍の戦いにおいてだが、函館港からの距離を考慮して造られたはずなのに、この頃の貧弱な艦砲でも砲弾が五稜郭まで届いてしまったのである。つまり、立地場所が海に近すぎた。また、訪れた時には見かけなかったが、五稜郭の石垣は排水処理が十分でなく、その真ん中辺りが膨らんでしまうようだ。この辺りが、現場を経験していない学者であった武田斐三郎の限界かもしれない。ただ、当時は泰平から目覚めたばかりで、日本の知識階級に実戦を経験したものが皆無であったということを考えれば、それを武田斐三郎個人の資質に帰するのは酷という気もする。
 五稜郭が築かれた後、幕府はこの地に箱館奉行所を置き、大政奉還後には維新政府が箱館府を開いたが、新政府軍は北へと転戦してきた榎本武揚率いる旧幕府軍の侵攻によって撤退した。明治元年(1868)10月26日に函館を占拠した旧幕府軍は、蝦夷共和国を建国してその本拠地としたが、約7ヶ月間の函館戦争に敗れ、同2年(1869)5月18日に降伏する。この間の、僅か5年ほどが五稜郭の活躍した時代で、これ以降、北海道には開拓使が置かれ、その中枢機能は札幌へと移動し、明治4年から建物類も撤去され、函館は次第に北海道の中心ではなくなっていった。
五稜郭内に通じる門の部分 自分が訪れた時は夏で、写真で紹介されているような冬の凛とした雰囲気はなかったが、堀にはボートが浮かぶなど、観光客が多く訪れる観光地となっており、緑も多く雰囲気は良い。五稜郭自体は、保存状態もよく、変に観光施設などもないので、ゆっくりと散策ができる。また、堀の土手には舞台があり、ここで市民創作の野外劇が上演されるなど、観光客にも市民にも親しまれている空間となっていた。このあたりは、形式が和であろうが洋であろうが、他の市街地にある城跡と使われ方は違わないようだ。