鞆城 所在地 広島県福山市
福山市役所南11.4km鞆ノ浦後背
区分 平山城
最終訪問日 2014/6/14
歴史民俗資料館裏手に残る石垣 備後最大の港湾都市であった鞆を押さえる城。
 鞆は古代から潮待ち湊として栄えていたが、南北朝時代初期頃に鞆の東南端の大可島に城が築かれたこともあって、陸側に城は無かった。鞆城の創始と見られる城砦が築かれたのは天文22年(1553)で、毛利家臣の渡辺房が鞆要害として工事を行っていることが見える。
 渡辺氏というのは、その一字名から嵯峨源氏渡辺綱の後裔というのは明らかだが、備後入部以前の事跡はよく分かっていない。室町幕府草創の頃に備後国山田荘の地頭職を得たことで備後と縁を持ったが、没落などもあり、備後にしっかりと根付いたのは房の父とも祖父ともいう兼の時代であった。当時は山名氏に属しており、その命で鞆から5kmほど北西の熊野に入部し、一乗山城を築いたという。その後は、他の備後の中小豪族と同じように大内氏の勢力伸張に伴って大内氏に属し、尼子氏が備後に勢力を伸ばすと尼子氏に一時期は従っていたが、後には再び大内氏に転じたようだ。しかし、天文20年(1551)の大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(晴賢)に討たれ、実質的に大内氏が滅んだことから、やがて毛利氏に通じるようになったと見られる。鞆要害の築城年は、毛利元就が晴賢を破る厳島の合戦の前々年だが、房の活動はすでに毛利家臣としてのものであった。
 鞆要害築城までの鞆の防衛は、海側の大可島城を支配下に置いていた因島村上氏が担っていたが、鞆要害が築城されたということは、陸側の領主である渡辺氏もその責を担ったと言うことができる。この背景としては、築城前年の志川滝山合戦の影響があるのかもしれない。志川滝山合戦とは、大内氏滅亡後に備後への支配を拡げる毛利氏に対し、尼子氏の配下にあった宮氏が抵抗した戦いだが、志川滝山城は神辺平野のすぐ北にあり、鞆からそう離れていない場所にある。合戦では毛利氏が勝利しているが、尼子氏の逆襲に対する備えが必要との認識があったのだろう。
鞆城二ノ丸跡にある公園 鞆城はその後、信長によって元亀4年(1573)に京を追われていた足利義昭が、天正4年(1576)に毛利氏に援けを求めた為、2月に紀伊から鞆へ下ってきた義昭の在所となった。この時に城の普請もあったようで、築城年をこの年とする説もある。また、義昭の接待役と警固には房の子元が命じられ、大可島城主村上亮康と共に任にあたった。ちなみに、鞆にいた時代も義昭は引き続き征夷大将軍の地位にあり、将軍としての政務も遂行した為、現在では鞆時代を鞆幕府とも呼ぶ。また、初代将軍の足利尊氏が九州から勢力を盛り返してこの鞆で新田義貞討伐の院宣を受けており、室町幕府は鞆に興り鞆に滅んだとも言われる。
 義昭の滞在は6年に及んだが、天正10年(1582)の本能寺の変後に津之郷へと移り、鞆城は毛利家臣の城代が在城したという。そして慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後には広島城に入部した福島正則が支配し、領内6支城のひとつとして大可島城と併せる形で大規模に拡張修築が行われた。この工事は、慶長14年(1609)の段階でもまだ続いていことが史料に見え、城を任された福島家臣大崎長行も、工事の為に主に三原城に在り、実際の在城期間は短かったようだ。だが、その規模の大きさ故に幕府にも目を付けらてしまい、それを恐れた正則が元和元年(1615)の一国一城令に先駆けて廃城にしたという。
 城の構造は、鞆の湊のすぐ北の丘陵頂上を本丸としたのは間違いないが、現地案内板では、壮大な二ノ丸、三ノ丸が築かれたことだけが記されており、破却時期が早かった為か、不明な点も多い。同じく案内板には、城の東端を福禅寺、北端を沼名前神社の参道としており、主郭のある丘陵を中心に平地の郭で囲むという輪郭式の城だったのだろう。また、福禅寺のすぐ南は埋め立てで陸繋島化した大可島であり、その台上の大可島城跡には慶長15年(1610)頃に円福寺が移転したが、眺望が利く為、実質的には出丸や物見台の機能を果たしたと思われる。
鞆城からの鞆ノ浦の眺め 現在の鞆城は、主郭の丘陵上に歴史民俗資料館があり、その基礎部分に当時の石垣や、石垣の基底部を元に復元した石垣があり、資料館の西側には石垣の石材や、発掘された本丸の石塁などもあった。丘陵上は、資料館部分と公園部分、そして地蔵院などがある部分の3段に分かれ、主郭部の構造は把握しやすい。しかし、平地部分は完全に市街地化されており、城の痕跡は無かった。本丸跡からは、鞆ノ浦が一望できて非常に眺めが良く、小一時間は飽きもせず眺めていられるほどで、鞆の町並みと合わせて散策したい城である。