大可島城 所在地 広島県福山市
福山市役所南11.7km鞆港東側後背
区分 平山城・海城
最終訪問日 2014/6/14
大可島城説明板 南北朝時代に激戦地となった城。タイガシマと読む。
 築城時期ははっきりしないが、鎌倉時代末期から南北朝時代初期と推定されている。当時はその名の通り、現在と違って陸と繋がっていない島であり、古くからの天然の良港である鞆ノ津を押さえる位置として申し分なく、鞆ノ浦及び、燧灘を制する水軍にとっては非常に重要な拠点であった。
 南北朝時代の鞆は、伊予の南朝勢力と北朝勢力が争奪する場となったが、尊氏が建武3年(1336)にこの地で新田義貞追討の院宣を受けているほか、暦応2年(1339)には備後安国寺を建立したと伝わっており、鞆周辺は当初、北朝方が保っていたようだ。しかし、康永元年(1342)に南朝方の水軍が川之江城救援に失敗した後に鞆ノ浦へ移り、大可島を占拠したことによって鞆が南北朝両軍激突の戦場となるのである。一説には、城はこの時に南朝方によって築かれたともいう。
 同年のこの戦いは鞆合戦と呼ばれ、南朝方が金谷経氏を大将として大可島城に籠城したのに対し、北朝方は城から北西600mの小松寺を本陣としており、まさに陸と海で睨み合う戦いとなった。だが、この戦いの中、南朝方の拠点である伊予の世田山城や笠松城が危急との報せを受けた経氏は、南朝方の主力を率いて伊予に渡り、大河島城には志願した繻エ(桑原)重信のみが残ることとなる。しかし、多勢に無勢であり、重信以下籠城した一族は城を支えきれず、玉砕して滅んだという。
城跡にある円福寺 繻エ氏は、もともとは今の福山市駅家の椋山城主であり、元弘元年(1331)より始まる元弘の乱で挙兵した桜山慈俊に呼応し、後醍醐天皇に味方した。そして建武の新政が成立すると、その功で鞆ノ浦から北西に山を越えた山南の石浦城主となったのである。地勢的に考えると、鞆ノ浦が陥落すれば伊予との連携が絶たれてしまい、石浦城の所領も北朝方に占拠されるのは時間の問題と考えられ、或いは、籠城時にはもう既に領地を失っていたのかもしれない。重信の決死の籠城には、そのような死中に活を求めざるを得ない背景があったのだろう。ただ、本貫である椋山城には一族が残っていたようで、繻エ氏自体は戦国時代には宮氏の配下として活動が見られる。
 この後、尊氏の子でその弟の直義の養子となっていた直冬が、長門探題として貞和5年(1349)に鞆に滞在していたことが見え、その際に居城としたのは恐らくこの城だったのだろう。しかし、直冬は直義が失脚した煽りを受けて9月に高師直の指示を受けた杉原氏らの襲撃を受け、海路で九州へと逃れた。
 その後は、大内氏の支配を経て、天文13年(1544)からは瀬戸内の海賊である村上水軍の庶家因島村上氏に与えられたようだ。戦国時代末期の天正4年(1576)には、信長によって上方を追われた最後の室町将軍足利義昭が毛利氏を頼り、毛利氏は義昭を鞆に6年間住まわせたが、その際に因島村上家当主吉充の弟亮康がこの城に在り、護衛を務めていることが確認できる。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に毛利氏が備後を離れると、広島に入部した福島正則の支配となり、同年に鞆城の築城が開始され、埋め立てで大可島も陸続きとなって廃城となった。ただ、鞆城のすぐ東南で眺望も利くという立地から、実質的に鞆城の出丸や物見台の機能を担ったと思われ、鞆城廃城後も遠見番所が置かれており、その立地の優位性は利用され続けたようだ。
 現在の大可島城跡には、まだ鞆城が存った慶長15年(1610)頃に移転してきた円福寺がそのまま残っているが、城を示すものは案内板と繻エ一族の墓ぐらいで、残念ながら遺構としてはっきり残っているものは無い。現在の地形から類推するに、円福寺南隣の民家が城内最高所の本丸で、円福寺がやや下がった次段であり、北にも削平地があったとみられ、この3つの郭が主郭だろうか。境内を歩いてみると、東側に墓が一列に並んだ帯郭のような狭い平場があるほか、島の南側にも利用できそうな部分があり、この辺りが付属する小郭で、水軍の城ならば船溜ももちろんあったはずである。
城跡から仙酔島の眺め 鞆ノ浦の古い町並みから南へ道路を歩いていくと、走島へのフェリー乗り場があるが、その背後の丘陵が大可島城跡で、周囲は島の名残を残した断崖となっていた。円福寺の境内からは弁天島や仙酔島の景色が素晴らしく、海城らしい見通しの良さが今でも健在である。ちなみに、円福寺南隣の本丸跡と思われる丘陵最高部に建つ民家は、アニメの「崖の上のポニョ」のモデルになったといわれており、大可島へと向かう坂道などは、さすがに絵になる良い雰囲気があった。