新庄城 所在地 広島県神石高原町
神石高原町役場豊松支所南西2.4km
区分
最終訪問日 2014/6/14
新庄城説明板 神石高原町豊松支所から県道9号線を油木方面に行く途中で偶然見つけた城で、新城山城とも呼ぶ。現地案内板によれば、鎌倉時代末期に内藤実豊が10kmほど南西の亀石からこの新庄城に本拠を移したという。ただ、神石郡誌によれば、初代城主は内藤影政で、壱岐守、豊後守に続いて実豊とあり、実豊の後にも新左衛門なる武将が城主として見える。
 実豊は、元弘元年(1331)より始まる元弘の乱で、楠木正成と呼応して備後一宮の吉備津神社後背の桜山城で挙兵した桜山慈俊に従い、宮方として小早川氏の本拠沼田城を攻略したが、翌年に慈俊が宮方の劣勢に悲観して自刃した後、実豊の守った沼田城も攻略され、実豊は討死したという。また、実豊が守った城は三原の高木山城だったともいわれる。いずれにせよ、実豊の討死に伴い、この新庄城も備中より侵入した武家方によって攻撃され、城は落城した。
 その後の城の事跡は詳らかではなく、神石郡誌によれば、前述のように実豊の後に新左衛門という武将が見え、時期は不明ながら後には上山員貞や同豊後守、片山八郎などが城主の名として見える。別の伝承によれば、南北朝時代に実豊の居城するこの城に伯耆や石見の兵が攻め寄せたが、撃退したという話があり、実豊の討死の時期とは合わず、城将は実豊の跡を継いだ新左衛門の頃ではないだろうか。一方、続山城探訪という本では、内藤氏が退去したのは天文年間(1532-55)とあり、その後に上村員貞が入ったとする。諱から見て、神石郡誌の上山氏と続山城探訪の上村氏は同一人物と考えられるが、上村氏とするのが正しいのではないだろうか。この上村氏は元亀年間(1570-73)に没落し、前述の片山氏が入城したが、この頃の備後は既に安定した毛利体制下にあり、そのまま戦国時代最末期まで城は存続したのだろう。
 新庄城主だった内藤氏は、その後も一帯に勢力を残したようで、戦国時代には実盛が東山城主として見え、諱が判っている武将としては、義実、清定、実高、実国、実春など挙げられており、実盛と義実は元亀年間(1570-73)に没落し、実高は大友氏の支援で大内輝弘が毛利領内に侵入した際にこれに味方したようだ。ただ、輝弘が毛利軍に鎮圧された際に没落したのか、これ以降の事跡は不明である。
 城の構造は、案内板を見る限り、中央に本丸を置いて左右に次段を置く形だったようで、井戸や土塁が確認できるらしい。その他には、竪堀や畝状阻塞が登城道の反対に配置され、南東には古城という小郭があるのだが、全体的に北方向に備えの重点を置く城だったようだ。
 偶然に城の案内板を見付け、案内板に従って民家の脇から山に入ってみたが、道なりに登ると途中で左に曲がって墓に行き着いてしまい、案内板の通りに歩ける道ではなかった。この墓がある場所は、墓のある部分を中心に幾段かに分かれており、城跡の一部と言われれば信じてしまうような造りだったが、出城のような城跡の一部を利用した場所といった関連性があるのだろうか。少し戻り、途中の曲がった場所から墓とは反対方向の、道とも言えないほど左右が藪化した畦道のような所を歩いて進んでみると、竹薮と朽ちた空き家の民家があり、周辺の道が荒れている事に合点がいった。ここから先の道は、案内板にあった道の形とは明らかに違っており、この先でもないらしい。結局、それらしい道を見つけることができず、城へは辿り着けなかった。