千光寺山城 所在地 広島県尾道市
JR尾道駅北東740m千光寺公園周辺
区分 山城
最終訪問日 2016/11/14
千光寺山公園の展望台から千光寺公園一帯 港町尾道を押さえる城。権現山城ともいう。
 築城年代には、永禄年間(1558-70)と天正12年(1584)の2つの説があり、築城者は木梨杉原氏である。年代的に、前者の説であれば杉原元清(隆盛)、後者であればその子元恒になるだろうか。
 杉原氏は椙原とも書き、桓武平氏ではあるが、隆盛を極めた清盛の系統とは同じ伊勢平氏ではあるもののやや離れた系統で、清盛の曽祖父正衡の兄貞衡の流れである。貞衡から数えて5代目の恒平は、源氏に属して文治元年(1185)の奥州征伐の功などで備後に所領を得、後に下向した。そして、子の宗平と光平が所領を分割して相続し、光平が杉原を名乗ったという。
 杉原氏は、元弘元年(1331)から始まる元弘の乱では後醍醐天皇に属し、尊氏が建武政権から離脱すると、家を残すべく兄弟で両陣営に分かれた。北朝側に属したのは弟胤平で、その子である信平と為平は、尊氏の九州落ちに従ってそれぞれ功を挙げ、やがて備後国内で本郷荘や木梨荘を得ることとなる。こうして、後に木梨を治めた信平の系統が木梨杉原氏となった。
 木梨杉原氏の本拠は、今の尾道J.C.のやや北にある鷲尾山城で、尾道市街からはやや距離がある。尾道の港は、室町時代には備後守護だった山名氏の守護所が置かれていた時期もあり、やや離れた杉原氏の勢力が及んだのは、恐らく備後山名氏の勢力が衰えてからだろう。あるいは、築城年代である永禄年間なのかもしれず、もしそうであれば、年代的に毛利氏の後援による進出と思われる。
 杉原氏の本拠鷲尾山城は、元亀3年(1572)に石原忠直の急襲で落城してしまい、元恒は古志氏を頼って落ち延び、やがて鷲尾山城を奪回しているが、この頃の千光寺山城の事跡は、存在も含めて不明のようだ。はっきりしているのは、天正12年に元恒がこの城に本拠を移し、同19年(1591)に廃城になったことである。一説に、秀吉による山城停止令により廃城になったとされるが、そのような命令は明確に残っておらず、また、毛利領内ですら他の山城は健在であることから、千光寺山城に関しては単なる城割政策だったのではないだろうか。しかも、この数年後に杉原氏は尾道の支配を巡って主家と対立し、秀吉への転属を画策して改易されてしまっているという事を考えれば、城割令の出所は秀吉ですらないのかもしれない。
 現在の城跡は、千光寺公園として整備されてしまっており、遺構と呼べるものは無い。名前として、千畳敷や、天守台として使われたという八畳岩などの名称が残っているのみである。ただ、車でも駐車場がきちんと整備されており、また、尾道市街からでもロープウェイが通じているので、訪れるのに苦労は無いのが良い所と言えば良い所だろうか。