尾関山城 所在地 広島県三次市
JR尾関山駅北西320m
区分 平山城
最終訪問日 2016/11/13
尾関山城本丸に相当する石見台 背後の比熊山城に三吉広高が城を移した際、その大手の麓の出城として小丸積山に城を整備し、家臣の上里守光を城主として据えたのが最初と伝わる。この為、当初は積山城や小丸積山城と呼ばれた。比熊山城の築城が天正19年(1591)とされるが、天正年間(1573-93.1)の後期頃には城下町などの整備を始めていたようで、その一環として積山城も整備されたのだろう。
 その後、三吉氏の主君である毛利氏が、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で不戦ながら西軍総大将となった為、中国120万石の太守から防長二州約30万石に大減封となった。毛利家臣達は、毛利氏を慕って減封を受け入れつつ移住する者と、主家の財政を慮って浪人したり帰農したりする者に分かれたが、三吉氏は浪人となって京に隠棲しており、守光も同じく禄を失ったと思われる。詳しい動向は不明だが、上里一族は三次盆地に残った者が多く、後に尾道に出る者もあったようなので、守光も同じような決断をしたのだろう。
 毛利氏に代わって安芸と備後を支配したのは福島正則で、正則は領内6ヶ所に修築や新築で支城を整備した。備後には、守護所であった神辺と海運拠点である鞆、そして北辺であるこの三次に支城が置かれたが、三次では以前の本城である比熊山城ではなく、その出城積山城が支城として取り立てられることとなった。こうして城は改修され、重臣であった尾関正勝が1万2千石とも2万石ともいわれる知行で城主となっている。また、城も城主の名から、やがて尾関山城と呼ばれるようになった。
 その後、元和5年(1619)に、正則が広島城の無断補修を咎められて改易となるのだが、この時、正勝は早々に兵站を整え、町人と茶に興じて評定には顔を出さず、後は戦うのみと答えた戦国生き残りらしい逸話が残っている。結局、改易に際しては、神辺城の福島正澄と同様に主君の命で無血開城したと思われ、戦いが起こったという記録は残っていない。また、改易後、正則は改めて信濃川中島の高井野藩を与えられているのだが、正勝は同道せず、三次に残って翌年に死去している。
因幡台から望巴台 正則に代わって広島城に入城したのは、同じく豊臣恩顧の浅野長晟で、しばらく後の寛永9年(1632)に長晟が没した際に庶長子長治に5万石が分知され、三次藩が成立した。ただ、正則が整備した支城はほとんど廃城となっており、一国一城令下において備後では三原城が存続していることから、元和元年(1615)の一国一城令か4年後の正則改易の際に城は既に廃城になっていたと思われる。
 長治は、尾関山に新たに居館を設け、頂上部に発蒙台という天文台を置いた。また、領内の統治でも治績を挙げた人物で、堤防を本格的に築造して治水に力を注ぎ、名産や名物を育成して殖産に励んだ。こうして、長治以降、本家から養子を迎えながら三次藩は5代続いたが、残念ながら、無嗣断絶で再び三次は本藩支配となった。ちなみに、長治の娘は一門の浅野匠頭長矩に嫁いだ阿久利である。
 現在の城跡は、尾関山公園として整備されており、公園の案内図を見ると、各削平地は発蒙台と同様に台としての名前が付けられていた。これは、浅野時代に名付けられたものかもしれない。天守台か本丸の櫓台に相当するのが発蒙台で、こちらには現在、展望台が建てられている。発蒙台周囲には2段ほどの小郭があり、西には本丸に相当すると思われる石見台、北側から東側にかけての中腹に上黒台、三吉台という幅広の長い郭が設けられ、その先には福島台という郭があった。発蒙台の南西から南には、因幡台や望巴台、南東側に迎陽台というまとまった大きな郭があり、この辺りは本丸に続く居住区だったのかもしれない。全体的には、江の川を西に控えつつも、頂上部から満遍なく全体的に郭を広げた輪郭的な城である。また、浅野神社がある北西の方向も、城に標高が近い高台となっており、何らかの防御施設があったのではないだろうか。
城中に所々見られる石垣の痕跡 正則が整備した各支城は、総石垣造の城で、尾関山城も江戸初期は総石垣だったのだろう。だが、長治の時代か、以降の各時代の工事に石材が使用されたようで、残念ながら今はほとんど失われている。
 訪れた時期が紅葉の時期だったので、夥しい数の観光客がおり、落ち着いて散策できなかったが、遺構は非常に明確で、なかなか良い城跡だった。公園として整備する際、あまり改変を加えなかったのだろう。頂上の展望台からは、三次盆地と各川の様子や比熊山城が一望でき、景色にも満足できる城だ。