尾首城 所在地 広島県神石高原町
神石高原町役場豊松支所北東3.3km
区分 山城
最終訪問日 2014/6/14
道沿いの尾首城の案内 尾久尾城とも書き、城のある豊松一帯に勢力を築いていた有木氏の城。
 史料に出てくる有木氏としては、有木久親や有木貴親という武将が見え、これら有木氏一族の根拠地は中山城だったようだ。備後で有木氏といえば、備後一宮の吉備津神社の社家が有名だが、この有木氏は、備中より吉備津神社が備後へ分霊された際に共に移って来た一族で、伝承では豊松の有木氏もその末裔という。また、一方で、備後に勢力を持った宮氏の一族が豊松荘を拝領して移り、有木という地名を名乗ったという説もある。どちらが尾首城や豊松に勢力を持っていた有木氏の祖かは確めようが無いが、尾首城のある付近の地名は有木という大字であり、領主の名から地名を取ったのか地名が領主の名字となったかは置くとして、密接に関わりがあるのは間違いなさそうだ。
 有木氏の事跡を追うと、いつ頃からかは不明だが、室町時代には備後守護山名氏の家臣だったようで、戦国時代には備後宮氏に従ったことが見える。前述の久親と貴親については、戦国時代の武将で、豊松の昔話という史料には、貴親は戦功によって宮政信より中山城を与えられ、弟久親は永禄3年(1560)に毛利輝元から尾首城を与えられたとあるが、中山城は代々の居城であり、これらは恐らく新知ではなく領地安堵のことだろう。また、尾首城はこの前後に築城も行われたようだが、分家としての築城許可という所だろうか。ここで出てくる主君の宮氏については、戦国時代の宮氏が細分化していることもあって、政信が実際にどの武将を指すのかは分かり難く、下野守という官名から宮家の惣領を称した武将であったと思われる程度だが、応仁の乱の頃に同名で有力な武将がおり、様々な伝承が時代を超えて混ぜられたのかもしれない。
尾首城本丸の削平地 その後、久親系の尾首城主の有木氏は、久親の孫親宗の時の天正年間(1573-93.1)に滅んだという。城もこの時に廃城になったと思われるが、天正年間の備後は毛利氏の支配地域として比較的安定していたはずで、どのような経緯があったのかは不明である。天正19年(1591)に宮氏が出雲へと国替になったように、在地豪族を累代の根拠地から切り離す政策が毛利家で進められたこともあり、それらと関連する可能性も考えられるだろうか。
 城は、車道から山間の開拓された畑地を抜けた先の15mほどのピークにあり、登ってみると、高さの違う3段の削平地が確認できた。北側の三角形の郭が最も低く、三ノ丸かと思われ、ここから中央の本丸までは通路を兼ねる上り土塁があった。中央の本丸はやや三日月型に近い長方形で、長辺は25mほどもあり、意外と大きい。本丸の南側にはやや下がってもうひとつ郭があり、高さ的に二ノ丸ということになるだろうか。こちらは藪化しており、満足に散策はできなかった。これらの郭の南東側は仁吾川の川筋に向かって落ち込む急坂となっており、特に防御面の工夫は見られず、地形がそのまま防御力となっていたようだ。反対側の北西方向は、現在は畑地なのだが、緩やかな丘陵という感じで険しい地形は無く、幾段かの平地は当時からのものか開墾によるものかは不明なものの、領主や家臣の居住区画があったのかもしれない。
尾首城全景 仁吾川沿いの道にあった旧豊松村の案内図に記されていた事で知った城なのだが、現地に具体的な位置を指し示すものが無い為、場所が非常に分かりにくく、幾度か行こうとして見付けられなかったが、ようやく行き着く事が出来た。県道106号線にある有木の小集落から少し南西に進むと東郷油屋という案内表示が出ており、そこをしばらく上った先の鋭角の分岐からUターンするように右へ入っていくと、城への案内が出てくる。ただ、この辺りは道が非常に細く、普通サイズ以上の車の場合は注意が必要となるだろう。