毛利隆元墓
所在地  広島県吉田町
吉田町役場北700m郡山西側中腹
最終訪問日  1995/10/9
 毛利隆元は、毛利家を戦国大名として雄飛させた毛利元就の嫡男として大永3年(1523)に生まれた。この年は、元就の甥である幸松丸が死去し、元就が家督を継いだ年であるが、誕生したのは本拠の郡山城ではなく猿掛城だったとされることから、幸松丸死去の前であったか、元就が弟元綱との家督争いで勢力基盤が不安定だった頃だろう。
 この家督争いの際、元就の家督相続に危険を感じた尼子経久が、元綱を援助して争いに介入しているが、元就が家督を継ぐと、この経緯から尼子家より離反して大内義隆方へと転じた。そして、隆元はその人質として15歳から数年の間、山口で起居している。ちなみに、隆元の名は、義隆を烏帽子親として元服し、偏諱を受けてのものである。その後、大内重臣である内藤興盛の娘を義隆の養女として室に迎え、毛利家と大内家を繋ぐ要の役割を担った。
 天文20年(1551)に義隆が陶隆房(晴賢)の叛乱で没すると、義隆との個人的な関係もあって隆元は晴賢打倒を主張し、やがて毛利家は天文24年(1555)の厳島の合戦において、寡兵ながら奇策でもって晴賢を敗死に追い込んでいる。この後、毛利家は弱体化した大内領を次々に併呑し、また、降伏する大内家臣を吸収して中国随一の勢力へと成長していった。
 その後、中国地方西部を支配下に収めた毛利家は、山陰と北九州へ手を伸ばし、尼子氏や大友氏と対峙するようになる。隆元も父に従って各地を転戦していたが、永禄6年(1563)に大友氏と和睦し、軍を翻して尼子攻めへ向かう途中、和智誠春から饗応を受けた直後に倒れ、翌未明に安芸の佐々部で急死した。8月4日のこととも9月1のことともいう。享年41。
 隆元が元就から家督を譲られたのは天文15年(1546)とも弘治3年(1557)ともいわれるが、家督継承後も政戦略は元就が主となって決定していたようで、隆元の影は薄い。三兄弟の中でも個性の強い元春と隆景は仲が良く、おとなしい隆元は浮いていたともいわれ、元就自身も隆元を優柔不断な性格と見ていたようだが、その一方で裏表の無い誠実な人柄で人望があったともいわれており、良くも悪くも目立つ初代を補佐しつつ、家中をまとめて権力を継承していくには最適な人物であったように思われる。これは、織田信忠や徳川秀忠に通じるものがあり、権力継承のひとつの型なのかもしれない。
 また、隆元には内政や経済的なことに才能があったようで、急拡大した領地を地固めし、財政基盤を確立していくという仕事を担っていたらしいのだが、隆元の急死後、毛利家の内政や財政が混乱したといわれる。結局、その方面を引き継いだのは弟の隆景だったが、兄のやってきたことが解って改めて敬服したという話も伝わっている。ともかく、隆元の死後、父元就が謀殺を疑って、取り乱したように和智氏一党や赤川元保を謀殺したり自刃に追い込んだりしているが、これは隆元への期待の裏返しであったと思われ、少なくとも元就が十分に器量を認めていたという証左だろう。
 毛利家累代の本拠であった郡山城には一族の墓が点在していたが、元就の三百回忌を翌年に控えた明治2年に墓が改葬され、かつての洞春寺の跡に集められた。しかし、隆元の墓は菩提寺であった常栄寺の跡から動かされなかったようで、現在も隆元の墓は父元就や一族の墓とはやや離れた場所にある。元就や両川の弟に比べて地味な隆元だが、郡山を巡るハイクコース上にあり、訪れる人は多いようだ。
 郡山には、この隆元や毛利家を隆盛させた元就といった郡山城所縁の人物の墓だけではなく、百万一心の碑や三矢の訓跡の碑などもあり、当時の毛利家の様子を想像しながら城跡や墓所などの史跡を巡って散策する環境が整っている。訪れた時もハイクコースを基本に散策したが、点在している史跡を巡って行くと、半日は十分に過ごせるほどだった。