毛利元就墓
所在地  広島県吉田町
吉田町役場北800m郡山西北側中腹
最終訪問日  1995/10/9
 毛利氏は、鎌倉初期の名政治家大江広元の末裔で、広元の四男季光が相模国毛利荘を得て地名を名乗ったのが毛利氏の最初である。そして、季光の孫時親がこの吉田へ下り、建武3年(1336)に本拠郡山城を築城して土着したのが安芸毛利家である。
 毛利家を中国の雄へと押し上げた元就は、明応6年(1497)に父弘元の次男として生まれた。生誕地は本拠郡山城とも、母の実家である福原氏の居城鈴尾城ともいわれる。4歳の時に父弘元の隠居に伴って郡山城から多治比の猿掛城へと移ったが、すぐに母が、次いで父も10歳の時に死別し、更には当主となっていた兄興元も20歳の時に死去した為、元就の少年時代から若年時代までは近しい身内がおらず孤独であった。この頃に継母である大方殿の愛情を受けたことが元就にかなり影響を与えたようで、これが一族を大事にする後年の姿勢に繋がったと思われる。
 兄の死後、毛利家の家督はその子幸松丸が継ぎ、元就は高橋久光と共に後見役を務め、初陣の有田中井手の合戦で武田元繁を敗死させるなど、武将として次第に頭角を現していった。そして、幸松丸が9歳で早世すると、当然のことながら幸松丸に子が無かった為、大永3年(1523)に当主の座に就いた。ここからいよいよ元就の時代が始まる。
 この当時の毛利家は、安芸の有力国人とは言え大内氏や尼子氏といった大大名に臣従する立場にあり、尼子経久が健在の頃は尼子氏に臣従していた。しかし、元就の家督相続後しばらくして大内配下へと転じた。一説に、経久が将来の禍根となるであろう元就を排除し、弟元綱を当主に就けようと画策した為であるという。一方、元就に離脱された尼子家は、経久から孫の晴久へと家督が継承されていたが、元就が離反してから宍戸家や熊谷家と誼を通じて着々と勢力を伸張させているのを苦々しく思い、晴久は再び安芸への影響力を復活させるべく周囲の反対を押し切って天文9年(1540)に出陣し、郡山城を囲んだ。この時、元就は大内氏に援軍を要請すると共に郡山城へ籠り、奇襲によって打撃を与えつつ大内軍を待つ作戦を採り、大内軍の援軍1万が到着すると総攻撃をかけて尼子軍の撃退に成功している。
 その後、大内義隆による尼子氏の月山富田城攻撃に参加するなど大内配下の国人として活動しつつ、吉川家や小早川家にそれぞれ次男元春、三男隆景を送り込んで家督を継がせ、勢力拡大への布石を確実に打っていった。また、家中においては、猿掛城時代から専横の激しかった井上一族を誅滅するなど、統治体制を整えている。
 天文20年(1550)に陶隆房(晴賢)の叛乱によって大内義隆が滅ぶと、一旦は晴賢と結ぶも、後に嫡子隆元の言を容れて反晴賢の兵を挙げた。そして、囮にする宮尾城の構築や重臣桂元澄の偽りの内応といった謀略を駆使して逃げ場の無い厳島に晴賢軍をおびき寄せ、村上水軍の協力も得て夜の間に厳島へ上陸し、夜明けと共に陶軍に攻め掛かった。これが天文24年(1555)の厳島の合戦である。狭い島で急襲を受けた陶軍は戦うよりも逃げ回るのに懸命で、陶軍総崩れの中、退却する船すら失われていることを悟った晴賢は自刃して果てた。
 厳島での勝利以降、元就は大黒柱を失った大内領の併呑を進めて西に進軍し、晴賢に擁立されていた大内義長を約2年という短期間で滅ぼした。その後は更に北九州や山陰へと勢力を伸ばし、北九州では大友氏と10年以上に渡る死闘を繰り広げ、山陰の尼子氏とは石見銀山を巡る争奪戦を制して本拠月山富田城へと攻め寄り、永禄9年(1566)、ついにこれを滅ぼしている。
 尼子氏滅亡の時、元就はすでに齢70となり、体力の衰えは隠せず、幾度と無く体調を崩すようになっていた。この頃にはすでに嫡子隆元は亡かったが、隆元の要請によって元春と隆景による両川体制が確立しており、家督を継いでいた嫡孫輝元を支えてくれていた。これは、元就が説き続けていた一族の結束が実を結んだということだろう。こうした一族のまとまりを見届け、元亀2年(1571)6月14日、郡山城において元就は波乱の一生を終えた。享年75。
 元就の墓は、本拠であった郡山城の北西側中腹、元就の死の翌年に菩提寺として建立された洞春寺の跡にある。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で孫の輝元が西軍の総大将という立場であった為、江戸時代に毛利家が防府長門、世間一般でいうところの長州の範囲に移されたことにより、洞春寺も現在は山口市にあるが、元就の墓を動かすのは畏れ多いということで移されなかったらしい。その為、今もそのまま所縁のある郡山城で眠っている。
 元就の墓がある郡山城にはハイクコースがぐるっと一周しているが、ハイクコース周辺には元就の先祖らが合葬された一族の墓や、嫡子隆元の墓、百万一心の碑や三矢の訓跡の碑などもあり、まるで戦国期の興隆していく毛利家がそのまま凝縮されているようだ。これらの史跡を訪ねながら歩いていると、戦国時代の残り香を味わうような感覚があり、なかなか良かった。