三原城 所在地 広島県三原市
JR三原駅周辺
区分 平城・海城
最終訪問日 2016/11/14
巨大な天守台をJR側から 永禄10年(1567)、瀬戸内の水軍を掌握していた小早川隆景が、三原湾に浮かぶ大島、小島を結んで、城郭兼軍港として築城を始めた。満潮時にはまるで浮かんで見えることから、浮城の名があり、秀吉もその縄張を賞賛したといわれる。
 天正10年(1582)前後に大きな改修が施されており、その時期に城は一応の完成を見たと考えられているが、後の慶長元年(1596)にも、筑前国名島城を養子秀秋に譲って隠退した隆景の隠居城として改修されており、近世城としての完成はこの時だろう。その際、かつての居城であった新高山城を廃城にしてその資材が転用され、ほぼ現在の形となった。しかし、隆景は改修の翌年に亡くなり、家督を継いだ秀秋は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦での西軍から東軍へ戦局を大きく動かす寝返りによって岡山へ加増転封となった為、三原城の完成から小早川家の治めた期間はごく僅かである。
 関ヶ原の合戦後、秀秋に代わって三原城を支配したのは広島城に入部した福島正則で、正則は広島城を首城として領内に6つの城を整備し、この三原城には養子正之を入れ、西備後地域の要としたのだが、正之は慶長13年(1608)に死去してしまった。正之の死に関しては、正之の乱行を正則が幕府に訴え出て幽閉し、やがて餓死したと伝わっているが、資質の優れた武将だったという話も一方では伝わっており、どうやら正則に忠勝(正勝)や正利という実子が誕生した為、正之を疎んじた結果という線が怪しいようだ。奇しくも、正則を取り立てた秀吉と、その養嗣子になって後に殺生関白と呼ばれた秀次の話に酷似している。
 正之が幽閉された後の城主は不明で、恐らく城番が置かれていたと思われるが、元和5年(1619)には、今度は正則が自身の不注意か幕府官僚の謀略によるものか、崩れた広島城の石垣を無許可で補修した咎によって信濃国川中島に流されてしまった。こうして、芸備二州は福島領を引き継いだ浅野氏の領地となり、三原城も浅野長政の従兄弟で一門家老の浅野忠吉が城代となって維新まで世襲している。ちなみに、正則が支城網として整備した6つの城は廃城になったものが多いが、この三原城だけは備後国の統治拠点として、一国一城令後も存続が認められていたのだった。
三原城絵図 維新後は、水軍の城として築かれた立地を生かし、一時は海軍鎮守府用地となったが、明治19年に正式に軍港として呉が選ばれたことにより、後に城地や建物が競売にかけられ、取り壊されるなどした。そして、明治27年には鉄道が本丸を貫き、今のいびつな形となったのだが、富国強兵と西洋化が国是であった当時では、もし鉄道用地とならなくても、結局は破壊を免れなかったと思われる。それにしても、水堀を埋め立てたり堀切を利用したりして線路や道路を通す例は多いのだが、わざわざ石垣を削ってまでして、城のど真ん中を突っ切って通しているのは珍しい。しかも、城に駅を造るとなると城跡が跡形もなく消えてしまってもおかしくないのに、石垣が駅と共存しているというのなら尚のことである。
 城の構造は、水軍の城らしく南側の海に船入を開いて直接船で入れるようになっており、本丸を中心として北を除く3方向に二ノ丸を置き、内堀を挟んでその東側に三ノ丸を配していた。また、三ノ丸の東には中堀があり、その外側には惣掘の役目を果たしたと思われる外堀を穿ち、更に城の東西にはそれぞれ和久原川と河原谷川を天然の堀として配している。全体で見ると、東西900m、南北700m、城門14ヶ所、櫓30以上という規模を持っていた。
 三原城本丸北端にある天守台は、日本最大級の規模で、広島城の天守台の6倍の面積を持ち、「アブリ積み」と呼ばれる特殊な工法で造られていたという。ただ、このような近世城郭の特徴である高石垣は、戦乱収まらぬ天正期の改修ではなく平時であった慶長期の改修で完成したものと思われるが、この時にはすでに広島城が存在しており、慎重で慎み深かった隆景が本家を上回る規模の天守を望んでいたとは考えにくく、正しくは天守郭と呼ぶべきものである。実際、絵図には二重櫓が多聞で連結している姿が描かれており、天守自体の存在には諸説あるが、和歌山城のような構成であったのだろう。従って、単純に天守台として大きさを比較するのは、やや障りがあるのではないだろうか。
市街地に残る船入櫓の石垣 三原城の現在は、駅の通路が本丸石垣を貫通してはいるが、その一部は形状を留めており、天守台と周囲の堀、船入跡、船入櫓跡、本丸中門跡が駅周辺に残っている。駅からでも見ることができる天守台石垣は、築かれてから400年たった現在でも緩やかで優美な反りが健在で、当時の威容を偲ばせてくれており、その存在感が素晴らしい。以前に比べれば、駅や市街地にも案内が増えており、三原の街を散策しながら遺構巡りをするのも、宝探しのようで楽しかった。