郡山城 所在地 広島県吉田町
吉田町役場北1.5km
区分 山城
最終訪問日 1995/10/9
 鎌倉時代から戦国時代にかけての毛利氏の居城として機能した、かなり大規模な山城である。他と混同を避ける為に、地名を冠して吉田郡山城と呼ばれることが多い。
 毛利氏は、鎌倉初期の名政治家大江広元の流れで、江戸期の大名に出自の怪しい家が多い中、純然たる名家である。毛利氏の祖である大江氏は、阿保親王の侍女が身ごもったまま大枝本主に降嫁して大江音人が生まれたという伝説を持つ古代からの貴族で、その祖は天穂日命であるという。ただ、降嫁伝説は天皇家に繋がるよう後世に創作された可能性が高く、鎌倉幕府に招かれた広元自身も養子で大江家に入ったとの説もある人物なので、血統的に毛利氏から天皇家へ辿ることができるわけではなさそうだ。
 発祥はともかくとして、広元の四男季光が相模国毛利荘を得、地名を名乗ったのが毛利氏の最初である。この季光は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦泰村に与して敗れてしまったが、その子経光は辛うじて越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職を認められ、主に佐橋に住んだらしい。そして、経光の子時親は、吉田荘と佐橋荘の南条を譲られて安芸へと下り、建武3年(1336)にこの城を築城したという。この時親が安芸毛利氏の直接の祖となるのだが、時代背景から考えて、押領を防いで自らの領地を確保する必要性があったのではないだろうか。ちなみに、越後国佐橋荘を受け継いだ毛利氏は北条を名乗り、子孫は上杉謙信の家臣となっている。
 安芸下向以降、毛利氏は南北朝期には尊氏に従い、庶族を輩出して家臣団の礎とし、応仁元年(1467)からの応仁の乱では最初東軍、後に西軍に転じて所領を拡げていった。ただ、その当時の城は尾根筋の本城と呼ばれる位置にあり、合戦の際の詰として機能し、麓に居館があったと思われる。
 毛利家を中国の雄へと押し上げた元就は、弘元の次男として生まれ、最初は猿掛城を居城としていたが、兄興元、その子幸松丸が相次いで死去し、大永3年(1523)に当主の座に就いて郡山城に入城した。その当時の毛利家は安芸の一国人に過ぎず、大内氏や尼子氏といった大大名に臣従する立場にあり、尼子経久が健在の頃は尼子氏に臣従していたが、やがて大内配下へと転じている。一説には、元就の家督相続後、尼子氏が将来の禍根となるであろう元就を排除し、弟元綱を当主に就けようと画策した為であるという。一方、元就に離脱された尼子家は経久から孫晴久へと家督が継承されていたが、安芸の有力国人であった毛利氏の離反とその後の勢力伸張を苦々しく思った晴久は、周囲の反対を押し切って天文9年(1540)に出陣した。そして、夏の備後路からの侵攻は失敗したものの、8月に石見路から侵入して9月には郡山城を囲んだ。
 元就は家督を継いで以降、郡山城を抜本的に改修し、標高約400mの山頂へ本丸を移して巨大な戦国山城に拡張していた。この当時は現在残っているほどの規模ではなかったと思われるが、それでも将兵と領民合わせて8千名が籠城できたほどであったから、一国人の城としては破格の規模である。
 城を囲んだ尼子軍は、城下を焼き払うなど籠城軍を挑発したが、元就の巧みな奇襲に翻弄され、戦果を得られぬまま時が過ぎ、更に12月には大内氏からの援軍として大内家臣陶隆房率いる1万の軍勢が到着してしまう。これにより、年明けには勢いを得た元就の総攻撃を受け敗北、積雪で大きな損害を出しながら撤退した。この戦いで副将尼子久幸や多数の将兵を失った尼子氏の武威は落ち、元就の名が揚がったのである。
 この後、内向きには、元就が若年の頃に養育しつつもその領地を押領し、元就が長じてからも家督相続での貢献を楯に権臣として横暴な振る舞いが多かった井上一族30余名を滅ぼして家臣団の統制を図り、外向きには、次男元春を吉川氏に女婿として、三男隆景を小早川氏の養子として送り込み、着々と勢力を拡大していく。そして、天文20年(1551)、隆房が謀反を起こして大内義隆を討ち、大友氏から晴英(義長)を当主に迎えて自らも晴賢に改名すると、元就はしばらくは協力したが、後に嫡子隆元の言を入れて反晴賢の旗を挙げ、同24年(1555)の厳島の合戦でこれを滅ぼした。そして、その勢いで旧大内領のほとんどを併呑、更に北九州で大友氏と争い、永禄9年(1569)には宿敵尼子氏を滅ぼし、ついに中国地方のほとんどを支配するに至ったのである。
 元亀2年(1571)の元就没後、家督は嫡孫輝元に引き継がれたが、元就は天下を望むなという遺言を残したといわれており、元春と隆景を中心とする集団指導体制、所謂両川体制を敷いて輝元を補佐し、極端な拡張主義は採られなかった。その後、室町幕府滅亡によって鞆に追われていた足利義昭の依頼で、対織田包囲網の一翼を担ったが、劣勢となる中、織田家中国方面軍司令官であった秀吉と天正10年(1582)の本能寺の変直後に和睦したことがきっかけとなり、隆景や輝元は秀吉政権下の五大老として中枢に参画する。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、輝元が西軍の名目上の総大将となり、西軍の敗北によって取り潰しの危機を迎えてしまう。この時、宗家の為に戦前から家康と密約を交わしていた元春の子広家が、自分への恩賞として用意された防長二州を宗家に残すよう懇願し、それが認められて毛利家は安芸を去った。
 山に残る遺構は、中国の覇者であった毛利元就の居城に相応しく巨大で、本丸から6方向の尾根筋に放射状に延びる郭群は壮観の一言であり、郡山全山を要塞化していたという遺構は比較的よく残っている。毛利氏の本拠としては、輝元が広島城に移った天正19年(1591)に役目を終えたが、その後しばらくは支城として機能していた。ちなみに、広島の城地を選定したのは元就といわれ、太平の世に合った城をそこに造るのが念願であったという。廃城後の郡山城は、元和元年(1615)の一国一城令の際や、寛政14年(1637)から翌年にかけて起こった島原の乱の後にその影響を懸念して破却され、輝元時代に構えられたという石垣も僅かな痕跡として残るのみである。もしかすると、あまりにも巨大な城であった為に、集中的に破壊されたのかもしれない。
 現在は山全体に登山道が延びているため、一日かけて歩けるほどの遊歩道が整備されており、ゆっくり時間をかけて散策したい城である。また、遊歩道沿いに毛利家所縁の墓や碑などが点在しており、雄大な遺構と共に古城としての趣は抜群だった。