神辺城 所在地 広島県福山市
JR神辺駅東500m
区分 山城
最終訪問日 2008/10/23
神辺城想像図 神辺城の築城は、建武2年(1335)に北朝方の備後守護として入部した朝山(浅山)景連によるというが、詳細は不明というのが実情のようだ。また、名前も道上ノ城や村尾城、黄葉山城、楓山城など、史料によって全く違う。
 築城以降、城は守護所であったとされるが、任期が短い仁木義長や石橋和義、上杉顕能、また、複数の守護を兼ねた細川頼春、高師泰の入城は不明で、他の守護では足利直冬が鞆城に、渋川義行が勝山城に居しており、守護所としての実績も不明である。
 室町時代に入ると、但馬を本拠とする山名氏が、明徳2年(1391)の明徳の乱で没落した一時期を除いて守護を務めたが、本宗家の職だった為、その一族が守護代となって現地に赴任し、居城していたのだろう。ただ、山名一族の守護代犬橋満泰が永享5年(1433)前後に改修したことや、応仁の乱の当事者である宗全持豊の子是豊が在城して改修したことが史料に見える以外は、事跡がはっきりしていない。後の神辺城主であった備後山名家の忠勝(氏政)も、このように備後へ入部した山名一族の末裔といわれているが、山名家のどの流れなのかは不明である。
 神辺城の歴史がはっきりとしてくるのは戦国時代で、前述の忠勝が辛うじて勢力を維持しつつ神辺城主として居城していたが、天文7年(1538)に大内義隆の家臣杉原理興によって追われ、備後山名家は滅亡した。ちなみに、神辺城を奪った理興は、一時期、山名の名跡を継いで山名を称していたが、後に杉原へと戻している。
 この理興は野心的な人物だったようで、大内家を後楯として備後南部の支配圏拡大に成功したのだが、参陣した大内軍が天文11年(1542)から翌年にかけての月山富田城攻めに苦戦すると、他の国人らと同様に時勢を見て尼子側へと寝返った。だが、大内家は早くも同年末から神辺城攻略に取り掛かった為、支城が次第に落城して行き、同16年(1547)かその翌年には、大内家重臣陶隆房や弘中隆兼、毛利元就など大軍での総攻撃を受ける。迎え討つ理興は、尼子氏にも援軍を請い、激しい攻防が繰り広げられたが、結局、城は落ちず、大内軍は平賀隆宗を向かい城に残して撤退したという。この後、両軍は陣城と神辺城の間で睨み合い、同18年(1549)か翌年に理興は城を捨てて逃亡しているが、城兵の逃亡や再度の攻城など、状況の変化があったと思われるものの、史料からはよく判らない。また、この一連の合戦は神辺合戦と呼ばれている。
神辺城本丸跡 理興が去った後、城には隆宗が入ったというが、一説に青景隆著が城主に任じられ、その家臣が城番を務めたともいう。そして、天文20年(1551)に義隆が陶隆房(晴賢)に討たれ、同24年(1555)には晴賢が厳島の合戦で元就に討たれるという情勢の激変を経て、城には元就に臣従した理興が復帰した。
 弘治3年(1557)の理興の死後は、嫡子がいなかった為に一族の盛重が吉川元春の支持で家督を継ぎ、元春の下で活躍するようになる。だが、理興の家臣藤井皓玄はこれに反対して下野し、永禄12年(1569)に盛重が九州へ出陣した隙を衝いて叛乱を起こす。この時、城は奪われたが、盛重は九州から戻ってすぐ城を奪い返し、皓玄を備中へ追った。
 盛重は、元春補佐の為に伯耆の尾高城や八橋城を与えれて山陰に在った為、その後の神辺城には城代が在城していたようだ。盛重が天正9年(1581)に死去した後は、家督を継いだ嫡男元盛が翌年に次男景盛によって謀殺されるという家督争いがあり、神辺城は毛利軍に攻められて没収された。そして、毛利家直轄の城として元就の八男元康が入るなどしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に広島へ入った福島正則の属城となり、福島正澄が置かれて近世城として完成したとされる。その後、元和5年(1619)に正則が改易となり、代わって入城した水野勝成が福山城を築くに伴って廃され、神辺一番から四番の櫓、鬼門櫓、櫛形櫓などが福山城へ移築されたという。
 駐車場から城へ向かうと、もうそこは城域で、遊歩道の入口の橋の部分は、よく形を残した毛抜堀という堀切である。遊歩道を登りつめると、トイレのある郭に到着するが、ここからの神辺市街の眺望が非常に良い。また、下には仏像のある平坦地が見えるが、ここも恐らく郭だったと思われ、山全体では25ヶ所の削平地があるという。このトイレのある段から2段上に細長い二ノ丸があり、本丸と二ノ丸の間から振り返ると見事な二ノ丸の切岸が見える。また、この辺りには大きな石も転がっており、これは恐らく福山城に持ち出された石垣の残りだろう。二ノ丸の上は本丸で、更にその向こう側には井戸跡を挟んで大小2段の削平地があった。この突端の小さいほうの郭はいかにも山城らしい綺麗な三角形の形で、ここからは歴史民俗資料館を望むこともできる。全体的には、一直線上に各郭が配された城と言え、山上に限って言えばかなり細長い。
本丸下の郭から歴史民俗資料館を望む 駐車場から徒歩で5分とかからず、下草も刈られ、体力を使わず快適に散策できる城だが、駐車場にある神辺城想像図は横から見た平面な図なので、縄張を照らし合わせながらの散策はできなかった。この想像図では、山上の郭群は甲之丸と呼ばれ、中腹から麓にかけて二ノ丸と三ノ丸がある。とすると、最末期の城は、厳密に区分すれば平山城になるが、公園整備で中腹と麓の遺構が破壊されてしまっており、遺構は確かめようがなかった。頂上部がきちんと残っているだけに、ここが非常に惜しい所である。