広島城 所在地 広島県広島市中区
広島県庁北500m
区分 平城
最終訪問日 1995/10/9
広島城天守閣(パンフレットより) 太田川下流域は、かつては川の水と潮が混ざる汽水域で、小さな島や砂洲が点在する土地だったという。中世には、この下流域を拠点とする川之内衆という水軍衆がおり、すぐ北の佐東金山城を本拠とする安芸武田氏に仕えていた。
 毛利氏が太田川下流域に手掛かりを得るのは、武田氏が完全に滅んだ天文10年(1541)からで、その旧領の一部を毛利元就が大内義隆から与えられたことによる。元就は、川之内衆を毛利水軍の一部として取り込み、大内義隆が天文20年(1551)に陶隆房(晴賢)の謀叛で没すると、同24年(1555)の厳島の合戦でその晴賢に勝利し、この地域の支配を確実なものとした。
 元就の在世中、この場所に城が築かれることはなく、元就は元亀2年(1571)に死去するが、一説では、この太田川下流域に平時の城を構えることを在世中に構想していたともいう。ようやくこの地に城が築城されたのは、元就から家督を継いだ孫輝元の時代であった。輝元は天正16年(1588)に上洛した際、秀吉の聚楽第に影響されたといい、聚楽第を念頭に翌年から太田川下流域に築城した近世平城が広島城で、広島の名もこの時に付けられたとされる。輝元が入城したのは2年後の天正19年(1591)だったが、築城工事は三角州という軟弱な地盤もあって難航し、最終的な完成は慶長4年(1599)のことであった。しかし、翌5年(1600)には関ヶ原の合戦が起こり、この戦後処理で不戦ながら西軍総大将であった毛利輝元は、減封されて萩に移されてしまう。こうして、広島城が毛利家累代の居城郡山城から受け継いだ120万石の首城という機能は、僅か9年間で終わりを告げたのであった。
 関ヶ原の合戦後、福島正則が尾張国清洲から広島城へ移って来ると、検地や巡検を行って領地の状況を掌握し、三原、神辺、鞆、三次、東城、小方の6支城を整備すると共に、広島城の改修にも取り掛かり、城の北部を通っていた西国街道を城下へと引き入れ、城の外郭を構築したほか、太田川の堤防も強化したという。しかし、豊臣氏滅亡後の元和3年(1617)に台風による水害で石垣が崩れた際、この石垣の修復に関して幕府の許可を得なかったことが咎められ、一旦は改修部分を破却することで許されたものの、結局は破却が十分でなかった為に同5年(1619)に改易となり、信濃国川中島に蟄居となってしまった。この届け出は、工事の2ヶ月前に幕府に出されていたというが、なかなか許可が出なかったのは、正則を恐れる幕府官僚の陰謀とも、放置による失態で政敵の失点を狙った幕府内の権力闘争の結果ともいわれる。もし、正則を恐れた為であるならば、平和な時代に伝説的となっていたであろう武名が災いしたのかもしれない。同じ豊臣恩顧の大藩である黒田家や浅野家に対する幕府の態度と比べ、同じく秀吉幕下の武の両輪であった加藤家に対する温度と似通ったものを感じるのは、気のせいではないだろう。
 その後、城には紀伊国和歌山から浅野長晟が入部し、明治維新までの約250年間の居城となったが、幕末に長州征伐の際の前線基地となったほか、維新成立後の明治6年に広島鎮台が置かれ、日清戦争の際には東京から大本営が移されたことによって明治天皇が7ヶ月以上に渡って行幸するなど、歴史の節目節目に登場する城であった。そのような時代の流れの中、城の建物は取り壊しや火災などで減ってはいたものの、原爆投下までは天守を始めとした幾つかの櫓や城門が残り、国宝にも指定され、優美な姿を留めていたという。しかし、残念なことに、昭和20年8月6日の原爆投下によって全ての建物は倒壊してしまった。
 城の構造に関しては、残念ながら正則の改修以前の姿は明確ではない。現在残っているのは改修後の形で、方形の本丸の南に馬出し状の二ノ丸、その外を大きく三ノ丸が三方を囲むという梯郭式の縄張を持ち、本丸と二ノ丸の周囲に内堀、三ノ丸の周囲に中堀が穿たれ、三ノ丸の東と南側に城下町を包含した外郭を造り、その周囲に外堀を廻らせた惣構えがあった。大きさは1km四方ほどもあったという典型的な近世平城である。明治時代に外堀が、戦後に中堀が埋め立てられたが、相生通りから白葉通り、城北通りの範囲がほぼ外堀の範囲で、現在の地図に合わせると堀の跡には広島電鉄が走っており、線路を敷く土地を確保するのが埋め立ての主な目的だったらしい。
 毛利元就が城地として選定したという説もあるように、太田川、京橋川を惣堀として使う厳固な惣構えの構造を持ちつつ、水運をも視野に入れた近世城下町の建設が可能な土地で、今でも中国地方随一の都市である事が、その着眼の正しさを物語っている。現在は、内堀より内側が公園として整備されており、昭和33年に天守閣が復元されたほか、二ノ丸にも城門や多聞櫓などが復元され、往時の城の雰囲気を伝えているが、近代まで天守閣を含め複数の建物があっただけに、福山城や名古屋城と同様に、戦争が無ければという思いがよぎるのは否めない。