比熊山城 所在地 広島県三次市
区分 山城
最終訪問日 2016/11/13
尾関山城から比熊山城 累代に渡って三次盆地を支配し、戦国時代に毛利家臣となった備後の豪族三吉氏の居城。
 比熊山城の築城完成は、もう世の中が定まった天正19年(1591)で、広高の代のことである。全国的には、防戦に有利な戦国期の険しい山城から、経済の発展が見込める平野部に城下町と一体となる城を築くという流れがある中での築城で、馬洗川と西城川が江の川へと合流する合流点の平野部を、水運を利用した城下町として発展させる意図があったのだろう。実際、広高が天正13年(1585)に、五日市の町割を世直屋という人物に命じており、この頃から移城の計画は開始されていたようだ。ただ、城はあくまで日隈山という険しい山にある城で、山城から平山城へという流れには逆らっており、この辺りが中国山地で過ごした豪族らしい考え方なのかもしれない。
 ちなみに、同時期の天正17年(1589)には、主君である毛利氏が広島城の築城を開始しており、重商主義の豊臣政権樹立の過程で、毛利家中全体としても、そのような商業振興の空気があったのではないだろうか。また、異説として、広高が叔父隆信(隆述)を比叡尾山城中で誘殺し、その怨念を避ける為に城を移したという伝承も残っている。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、主君の輝元は不戦ながら西軍総大将であった為、戦後に中国120万石の太守から防長二州約30万石に押し籠められ、家臣らは減封を承知で毛利氏を慕って移住する者と、火の車になるであろう藩財政を慮って帰農や浪人する者に分かれた。この時、城主だった広高は後者を選び、浪人となって京に上ったが、生活は困窮したようだ。また、新たに入部した福島正則の家臣尾関正勝は尾関山城を本城とした為、城もこの年に廃城となっている。
 ちなみに、広高は元和5年(1619)の正則改易後、安芸一国と備後の一部を拝領した浅野氏に召し出され、子孫は浅野家臣となった。また、その一流が毛利家の支藩長府藩に仕え、養子ながら幕末に寺田屋事件で坂本竜馬を救った三吉慎蔵を出している。
 比熊山城へは、麓の鳳源寺から登山道が出ているが、西城川沿いからぐるりと回って林業用の農道が北側に繋がっているとのことで、訪れた時はそちら側からアクセスを試みた。しかし、こちらはあまり使われていない道のようで、木や雑草の張り出しが多く、車であっても雑草や木々にある程度こすられる覚悟が必要かもしれない。自分の場合は、途中から濡れ落ち葉が層を成す坂道であった為、その手前でバイクを降りざるを得ず、その坂道以降の比較的平坦な道を徒歩で林道の分岐点まで到達することができたが、分岐点の先が藪化していた為、比叡尾山城散策の時間を考えて撤収した。