比叡尾山城 所在地 広島県三次市
中国道三次東I.C.北西2.9km
区分 山城
最終訪問日 2016/11/13
比叡尾山城本丸の削平地と土塁 備後の豪族三吉氏累代の居城。
 比叡尾山城の築城は三吉氏によるとされるが、その三吉氏には2系統がある。1つは近江源氏佐々木氏系の三吉氏で、頼朝に味方した佐々木秀義の子に秀綱がおり、備後国三吉郡の地頭職に補されて比叡尾山城を築城し、三吉を称したという。しかし、秀綱の子秀方が承久3年(1221)の承久の乱で朝廷に味方して没落し、後に鼓氏を称した。
 もう1つは藤原氏系の兼範が祖で、近江国からこの三吉郷に下向し、子兼宗が三吉太夫を名乗ったのに始まるという。その入部時期は、平安時代末期の12世紀とも、源姓三吉氏の没落後ともいわれる。しかし、どちらの説にしても血統は不明確で、仮冒なのかもしれない。
 三吉氏が歴史上にはっきりと登場するのは鎌倉時代末期で、後醍醐天皇が船上山で挙兵した際に参陣しており、建武政権と尊氏が対立した際には尊氏方となった。その後、足利直冬に属したとされるが、これは観応元年(1350)から始まる尊氏とその弟直義の対立である観応の擾乱の際に、長門へ赴任の途中足利直冬が備後に滞在し、勢力を固めていた為だろう。直冬が九州に移り、直義派が没落した後も、三吉氏は勢力を維持し、後には備後守護となった山名氏や西から勢力を伸ばした大内氏に属したようで、致高の時には、足利義稙を擁する大内義興の上洛軍に参加している。
比叡尾山城案内図 以降の三吉氏は、宍戸氏と組んで毛利氏と戦うなど、中国地方内陸部の中小豪族と攻伐を繰り返しているが、三吉氏を含め、山間の内陸部では大きな勢力が育つような後背地が無かった為、これらの豪族達は、山陰で急成長した尼子氏と山陽の巨大勢力大内氏との争いに翻弄され続けた。三吉氏は、天文9年(1540)から翌年にかけての尼子氏による毛利氏の吉田郡山城攻撃の際には尼子方として見え、それに敗れた尼子氏を討とうと天文11年(1542)から翌年にかけて大内氏が出陣した月山富田城攻めでは、大内方として参陣している。
 この月山富田城攻めで大内氏が敗れると、尼子氏は勢力を盛り返し、同13年(1544)には三次盆地西北の布野に、尼子軍でも精強で鳴る新宮党を主力とする7千の兵を布陣させて比叡尾山城を窺った。これに対し、毛利元就は援軍1千を派遣するが、その援軍は尼子軍の前に大敗を喫してしまう。しかし、戦勝に浮かれたのか、尼子軍は翌日に奇襲を掛けた三吉軍によって討ち破られ、三吉氏は撃退に成功したのであった。
 その後、天文20年(1551)の大寧寺の変で陶隆房(晴賢)によって大内家当主の義隆は横死し、その晴賢を同24年(1555)の厳島の合戦で破った元就が旧大内領を併呑して行くのだが、三吉氏は、元就が大きく飛躍する前の同22年(1553)に、致隆と子隆亮が共に起請文を出して毛利家に臣従しており、以降は毛利家臣として活動するようになる。この背景には、大内氏の混乱を衝いて備後に圧力を加える尼子氏の動きがあり、当初は晴賢に協力していた元就が、援護する余裕の無い晴賢に代わって尼子氏に対抗したからであった。こうして毛利家臣となった三吉氏は、毛利氏の勢力伸張と共に安定し、やがて平時の新たな支配拠点として天正19年(1591)に比熊山城が築かれると、比叡尾山城は廃城となった。
比叡尾山城二ノ丸 城は、三次盆地の北の山塊の末端、周囲からやや屹立した比叡尾山の南北に長い頂上部の尾根筋を利用して築かれており、地勢としては険しい山城ながら、平地がかなり広い。構造としては、山頂部に枡形になっていたと思われる段を備えた2段構成の本丸を配し、その北に井戸を備える北ノ丸、同じく南に本丸よりやや小さい二ノ丸が設けられ、これが主郭部を成している。主郭部の南と南南東には、ほぼ並行する尾根筋に高低差を持った段郭が築かれているが、特に二ノ丸の南の三ノ丸は都合3段構成で、かなり広かった。各郭の縁辺には明確に土塁が残されており、特に本丸や北ノ丸、三ノ丸の土塁は見応えがある。また、主郭部北東の屋敷跡を始め、場内各所に石材が散乱しており、往時は主要構造物のかなりの部分が石垣造だったのだろう。
 城へは、畠敷の集落から岩屋寺へ延びる車道をひたすら上って行くことになるが、この道は車ではすれ違い不可能な幅しか無い為、注意が必要である。岩屋寺への分岐を過ぎてしばらく行くと、比叡尾山城の案内があり、道端に1台か2台止めることができるスペースがあった。そこから尾根筋の鞍部に下りると、往時は鞍部の水堀と水之手を果たしたと思われる王子谷池があり、そこから城へと入ることができる。
 城内は非常に手入れがされており、二ノ丸からは三次盆地が一望可能で、時期によっては雲海が拝めるようだ。自分が訪れた時は夕景の盆地だったが、それもまた良かった。屋敷跡とされる場所には用途不明の並び方をしているものを含めて石塁がいくつか残っているが、その最も大きなものは斜めの筋目が認識できる谷積に近い積み方で、築造は江戸時代以降ではないだろうか。また、穴倉と呼ばれる遺構も用途がはっきりしないが、これは三吉氏系の他の城でも見られるという。大きさ的に倉にしては小さく、何らかの守護神を祀った石造の祠堂だろうか。このように、はっきりしない遺構はあるものの、想像という意味ではそれも愉しく、城からの眺めも含め、城好きは訪れておくべき壮大な城である。