五品嶽城 所在地 広島県庄原市
JR東城駅南西800m国道314号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2011/10/23
五品嶽城縄張図 大永享禄年間(1521-32)頃に宮景友が築いた山城。景友はこの城を本拠としたが、後に子の高盛が山塊を挟んだ西に大富山城を築いて移った為、大富山城を西城、それと対になるこの城を東城と呼び、これが地名の元となった。
 備後に勢力を張った宮氏は、その出自については諸説あるが、吉備津神社社家の一族とするのが最も有力な説のようだ。やがて宮氏はいくつかの流れに分かれたが、亀寿山城を領していたのが嫡流の下野守宮氏で、東城一帯もその宮氏の支配下にあったらしく、そこから素直に考えて、五品嶽城を築いた宮氏は嫡流から分かれた庶流の久代宮氏とするのが一般的である。だが、明徳2年(1399)の山名氏清の叛乱に加担した罪で大和国宇陀から配流された別系の宮利吉なる人物が、比田山城を築いて久代宮氏になったという説もあるほか、神石郡に土着した横山党の由緒によれば、建暦3年(1213)の和田義盛の乱に加担して没落した横山重忠を神石郡に迎えたのは久代宮氏としており、この時の久代宮氏当主を、同じく乱に加担して宇陀から備後へと落ち延びた利吉とする説もあるようだ。いずれにしても、室町時代以前の久代宮氏に関しては、確証の持てる事跡が無いということに変わりは無い。
 前述のように、北備後で一定の勢力を確立した久代宮氏は、景友が五品嶽城を築いて比田山城から移り、勢力を更に伸ばしていくのだが、子の高盛の代になると、家臣に新城築城を諮り、新たに大富山城を築城して移っている。大富山城築城は天文2年(1533)とされ、この城が宮氏の本拠であったのは最長でも10年程度と短いが、本拠移転後も東の拠点として重視されたのは、東城という呼び名からも容易に想像できるだろう。五品嶽城には、高盛の家臣渡辺七郎左衛門が入っていたが、大富山城が尼子氏などとの戦いで幾度か戦場になっていることに比べ、五品嶽城が戦場になったという事績は見当たらず、宮氏による東城一帯の支配は安定していたと思われる。
本丸にあたる山頂の常ノ丸 その後、天文20年(1551)の大内義隆横死による大内氏の衰退、それに乗じた尼子氏の勢力回復、同24年(1555)の厳島の合戦での陶晴賢打倒による毛利氏の台頭、そして尼子氏の衰退という、中国地方での情勢の変化を乗り越え、久代宮氏は毛利家臣に組み入れられつつ戦国期を乗り越えた。その毛利氏も、やがて中央を制した織田家と戦い、天正8年(1582)の本能寺の変を境に秀吉と和睦し、秀吉与党として豊臣政権へと組み込まれていく。このような流れの中、国人や地侍といった在郷領主という地位が認められなくなり、検地を通じてそのような層の既得権益が否定されつつあった。宮氏の当主広尚が出雲へ移されたのもこのような流れの中での事で、表向きは領地の過少申告による軍役逃れが主君毛利輝元の怒りを買ったとされているが、毛利領内の国人領主が相次いで先祖伝来の地から切り離された時期であり、宮氏にも同様の意思が及んだことは明白である。
 宮氏の退去後、五品嶽城には石見の国人である佐波広忠(恵連)が天正19年(1591)に1万石で入城したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に与した輝元は防長二州に大幅減封となった為、佐波氏も萩へと退去した。毛利氏に代わって安芸を与えられた福島正則は、広島城を本拠として領内の要衝や領境に、三原、三次、神辺、鞆、亀居、そしてこの五品嶽の6城を支城として整備し、この城には家臣長尾一勝を城主として据えている。だが正則は、江戸幕府の官僚とは細かな対立があり、その影響もあってか、台風によって崩れた広島城の石垣を補修した事を咎められ、元和5年(1619)に大幅な減封を伴って信州へ移されてしまい、五品嶽城もそれに伴って廃城となった。
 城の構造は、標高490m、比高170mの城山山頂を本丸の常ノ丸とし、西側は大きな堀切を穿って防御としてる。常ノ丸からは、東麓に向かって太鼓ノ平(ナル)、ケヤキヶ平と階段状に設けており、ケヤキヶ平の規模は山中の城としてしては非常に広く、屋敷や政庁の類があったのかもしれない。ケヤキヶ平からは、大手筋の石垣を挟むように北東方向へカヤノ平、南東方向へ段郭が伸び、この段郭を重ねた先が杉ノ平である。この他には物見ヶ丸という郭も備えられていた。ちなみに、郭をナルとするのは三沢城でも見られ、この辺りや奥出雲の方言として、丸が転訛したものだろうか。
大手に残る苔むした石垣 国道314号線に案内表示があり、それに従って階段を登ると世直神社がある。この世直神社の向かって左から登山道が出ており、最も太い道を道なりに行けば神社から10分とかからず城へと着く。城の入口には苔むして草に埋もれた石垣があるが、登山道から正面に石垣が見えてくる為、いかにも古城に来たという感じがして雰囲気が良い。城内には古井戸が2ヶ所ある為か、秋というのに蚊が多かったが、草もそれほど繁茂しておらず、快適に散策することができた。恐らく神社に関わる人や地元の方の整備があるのだろう。非常にありがたい。