福山城 所在地 広島県福山市
JR福山駅北すぐ
区分 平山城
最終訪問日 2011/6/19
福山城復興天守閣 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、安芸備後を領した福島正則は、広島城を本城として領内に6つの支城を配置し、この福山周辺には神辺城と鞆城に重臣を配した。この2つの城は戦国時代から既に存在していた城で、鞆城は鞆ノ浦を擁する海運に欠かせない重要な城、神辺城はかつて守護所が置かれた城である。つまり、両城が備後の政経の中心であった。
 元和5年(1619)、正則が広島城の修理を咎められて信濃国川中島に流されると、4年前の大坂の陣の戦功で大和郡山に封じられていた水野勝成が、同年に累進して備後10万石を拝領する。勝成は、西国大名への抑えとして山陽道の陸上交通と瀬戸内海の海上交通の両方に睨みの利く城を築城することにし、神辺城と鞆城を廃城にして元和8年(1622)に新城を完成させた。それがこの福山城である。
 築城にあたっては、神辺城にあった櫓が移されて神辺一番櫓から四番櫓となるなど、廃城となった周辺の城から多くの資材が移築されたのは当然として、これとは別に幕府から莫大な金額が貸し付けられたほか、伏見城からも松ノ丸東櫓だった伏見櫓や御湯殿、筋鉄御門といった建物も拝領し、福山城へと移築した。これは、山陽道や瀬戸内海を攻め上ってくるであろう仮想敵国の西国大名の監視役という重責の表れと言え、特に、大坂の陣以降は実質三層までに制限されていた天守が、五層もあったということがそれを象徴している。幕府としては、勇猛で、しかも家康の従兄弟にあたる勝成をもって、要道における鉄壁の藩屏とし、それに相応しい城を持たせたのだろう。
現存する筋金御門 福山城の縄張は、芦田川を天然の外堀として、南北に長い方形の本丸を中心に、一段下がって本丸を囲う二ノ丸、更にその東西南を囲う三ノ丸を配し、二ノ丸の南側と三ノ丸の外側の二重の堀を備えた、近世城郭のほぼ基本形であった。そして、南は芦田川河口の湿地帯を拓いて城下町を整備し、外堀には海から直接入れるようになっていたという。これを見ても、海からやや離れたとは言え、海際の鞆城の機能を引き継いだのが解る。だが、このような東西南の厳重な構えに対し、本丸北側は築城時に開削した吉津川の防御力に頼る貧弱なものであった。この弱点を補う為、吉津川周辺に寺院を配置して砦の機能を持たせたほか、天守北側一面には鉄板を貼り付け、砲撃に対する防御力を高めていたという。これは恐らく全国唯一のもので、銃火器が普及し切った江戸時代の築城らしい工夫が施されている。
 福山城築城以降、福山藩は水野氏が5代で無嗣断絶となり、天領を挟んで松平氏1代、阿部氏10代と続いて維新を迎えた。ちなみに、幕末の藩主阿部正弘は、老中首座として日米和親条約を結んだ人物である。これがどれだけ影響したか不明だが、大政奉還から王政復古へと進む中、長州藩が城の攻撃を企図したり、新政府への恭順後も各地の戦場の前線に投入されるなど、福山藩士への待遇は良いものではなかったようだ。
 維新後、城は明治6年に廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿、鐘櫓、三ノ丸の涼櫓を残して取り壊され、鉄道敷設などで堀も埋められたが、天守などは後に国宝となった。しかし、太平洋戦争の空襲によって天守と御湯殿が焼失してしまい、現在は伏見櫓と筋鉄御門、鐘櫓だけが国や市の重要文化財として現存するのみである。
搦手の棗木御門跡の桝形 都市部ということも影響してか、かつての城の雰囲気を濃厚に残しているというわけではなかったが、現存している建築物以外では、昭和41年に市制50周年事業として天守閣、御湯殿、月見櫓が、同48年に鏡櫓が外観復元されており、散策してみると、櫓や天守のお陰で雰囲気はなかなか良い。ただ、天守閣北側に張り付けられていた鉄板だけは、往時の姿に復元されていなかった。これは恐らく、美観と一般的な城のイメージを考えた結果と思われるが、それだけかつての福山城が他とは違う特徴的外観だったとも言えるのかもしれない。