並木城 所在地 群馬県高山村
高山村役場西4km
区分 平山城
最終訪問日 2014/5/10
並木城址碑と説明板 尻高(シッタカ)城の里城。
 尻高城は、白井長尾氏の景春(重国)が家臣に命じて応永8年(1401)3月から築城させ、翌々年2月に完成し、重国の三男重儀が入って尻高氏を称したとされる。並木城は、尻高城の里城である為、尻高城と同時期、もしくは完成後のしばらく後に築かれたのだろう。
 しかし、この築城の経緯を記す吾妻記の記述には重大な間違いがある。築城を命じたという景春は、文明8年(1476)から足掛け5年に渡る長尾景春の乱を起こした武将として有名で、北条早雲と並ぶ関東の下克上の雄だが、嘉吉3年(1443)の生まれであり、尻高城の事跡とは一致しない。また、尻高氏に関しても、南北朝時代の貞和5年(1349)に里見氏に敗れて没落した岩櫃城主吾妻行盛の次男が尻高郷を領して尻高氏を称していたという説や、行盛の長男で母方の斎藤を名乗った斎藤憲行が岩櫃城を回復した後、その五男大野憲基の孫義衡が岩櫃城の実権を得て三男基勝を尻高城に配し、基勝が尻高左馬介と称した説など、諸説混沌としている。或いは、長尾系、吾妻系、斎藤系の尻高氏がそれぞれが並立した時期があったのかもしれない。
 並木城の本城たる尻高城と尻高氏の事跡を追うと、戦国時代中頃までは吾妻郡の最大勢力であった斎藤氏とその主君である山内上杉氏に属していた。その後、斎藤憲広が鎌原氏と争い、それぞれが上杉謙信、武田信玄を後ろ盾にしたことから、斎藤氏は武田家臣の真田幸隆の攻撃を受け、攻防を経た後の永禄6年(1563)に岩櫃城は落城してしまうが、尻高城はその後も持ち堪えていたようだ。岩櫃城落城後には、憲広の子憲宗が謙信の後援で嶽山城に再興の兵を挙げ、再び武田軍と矛を交えるのだが、この頃に信玄が新海三社神社に納めた願文には、箕輪、白井、惣社、嶽山という上州の主要な城と並んで尻高城が記されており、抗戦し続けていた事が判る。
並木城の詰城である尻高城の説明板 その後、嶽山城が同8年(1565)に幸隆の調略によって落城し、斎藤氏が完全に没落した後も尻高氏は抵抗を続け、元亀2年(1571)に一旦は降伏するものの、天正2年(1574)までは上杉方として活動したようだ。だが、同年に武田軍の攻撃で尻高城が陥落し、当主景家は討死したとも越後に落ちたともいう。この時の攻撃は、真田昌幸軍によるものと伝わっているが、上野攻略を担当していた真田家の家督は幸隆の嫡子信綱が翌年の長篠の合戦で討死するまで務めており、昌幸は信玄の親族にあたる武藤家を継いで甲府での活動が中心であった為、これは誤伝かもしれない。
 尻高城の落城後、景家の子義隆は北の猿ヶ京の宮野城を本拠として家を存続させ、北条氏に属していたが、これも天正8年(1580)8月に真田軍に攻められ、義隆は自刃している。ちなみに、攻めた武将は、海野輝幸とも真田幸隆の弟矢沢頼綱ともいう。
 その後、天正11年(1583)に尻高城の尻高源次郎に対し、北条氏邦から中山城に移ることを命じたことが見える。時期的には、前年の本能寺の変後に武田旧領を争奪した北条氏と徳川氏が和睦し、上野が北条家の領有と決まった後の事で、それに従わない真田昌幸が徳川家から離反し、真田氏と北条氏の間で対立が深まっていた頃であった。北条氏としては、西上野の拠点として中山城を整備し、中山衆として中小豪族を再編する意図があったと思われる。尻高城もこれに伴って廃城となったのか、以降は史料に見えず、並木城も尻高城と同様に扱われたのだろう。ちなみに、源次郎というのは、尻高氏が武田氏に一旦降伏した際に出された人質の名と同じで、同一人物か、少なくとも嫡流に近い人物であったと考えられ、上杉方として活動した尻高氏は滅んだが、豪族としての尻高氏は別流として辛うじて存続していたようだ。
並木城南面の切岸 現在の並木城は、個人宅となっており、自由に散策することができないが、離れた場所からでも遺構と分かるほど、南側などは高低差があった。案内板によると、南は10m以上、東は5mの高低差があり、腰郭のような地形もあるらしい。また、東から南にかけて鍵型の武者走りが設けられ、その西の4mほど低い所が居住区だろうとある。つまり、切岸の上に土塁状の武者走りで谷側を固めた居館らしい造りのようで、それに隣接する畑が二ノ丸という。ちなみに、本城たる尻高城は、この城から道なりに上ったところに登山口があるようだ。