名胡桃城 所在地 群馬県みなかみ町
みなかみ町役場南西1.1km
区分 平山城・崖城
最終訪問日 2014/5/10
薄暮の名胡桃城本丸 小田原の役の原因となった事で有名な城。
 名胡桃城の築城は、一部では武田家臣真田昌幸が沼田城攻略の為に天正7年(1579)に築いたとされてきたが、一方で、明応年間(1492-1501)に沼田城主沼田景久の三男景冬によって築かれ、景冬は名胡桃氏を称したという伝承もあった。その後の発掘調査の結果、般若郭で古い時代の居館の跡が検出された為、現在では景冬による築城という説が有力である。確かに、般若郭と、本丸から三ノ郭までの一連の郭では、やや性格が違っており、本丸から三ノ郭の部分からは真田本城が思い浮かぶ。城の歴史としては、般若郭を中心に広い平場を持つ城として景冬が築き、谷筋を挟んだ南に真田氏が得意の細長い連郭を拡張して再築したというところだろうか。ちなみに、築城当時の沼田氏の本拠は小沢城で、沼田城に比べて名胡桃城に近い事を考えれば、より支城としての性格を理解し易い。
 城は、事跡ははっきりしないものの、小沢城から幕岩城、沼田城へと沼田氏の本拠が移る中、それらの支城として在り続けたと見られる。その後は、沼田城の事跡と同様であったと思われ、天文年間(1532-55)末期から永禄年間(1558-70)初期に掛けての北条氏の北上野進出までは沼田氏が支配していたが、やがてその北条氏の圧迫によって沼田当主の顕泰は越後へ落ち、北条氏から沼田の名跡を継いだ康元が沼田城に入って名胡桃城を含む沼田一帯を支配した。しかし、永禄3年(1560)の上杉景虎(謙信)の越山によって顕泰が沼田城に復帰した後は、沼田氏、更にはその主君にあたる上杉氏にとって、名胡桃城は街道筋を押さえる拠点として機能したと思われる。謙信の越山は、当初は現在廃道化している国道291号線ルートの清水峠を使い、後には三国峠を使ったようだが、名胡桃城はそのどちらでも進軍ルートに入る城であった。
名胡桃城案内板 その後、信憑性は不明ながら、沼田氏が家督争いの為に永禄12年(1569)に没落した為、沼田城は沼田氏と上杉家城番による二頭体制から上杉家の完全支配体制に移行し、名胡桃城も上杉氏の支配下にあったと思われる。しかし、天正6年(1578)の謙信没後に家督争いである御館の乱が勃発すると、沼田城は一方の後継候補である景虎の実家の北条氏が介入の為に支配し、支城である名胡桃城も同様に北条家の支配下に入った。だが、それも束の間、翌年には沼田攻略の手始めとして武田家臣真田昌幸が名胡桃城を手中に収め、沼田城代藤田信吉が対抗して攻め寄せたものの、雪の為に兵を引いたという。翌年になると、沼田攻略の拠点として昌幸自身が入城し、利根川を挟んだ川向こうの各支城を積極的に攻めつつ沼田城代の金子泰清、次いで同じく信吉を降誘させ、5月に沼田城の無血開城に成功している。
 その後、城には城代として真田家臣鈴木重則が入り、武田家の瓦解と本能寺の変を経て、徳川家や北条家との領地争いを抱えた真田家の支城のひとつとして機能したが、天正17年(1589)に秀吉の裁定で沼田城を含む沼田領の過半が北条領とされた為、この城が再び真田氏の沼田領における最前線となった。しかし、同年に沼田城代猪俣邦憲が鈴木家臣中山九郎兵衛を調略して重則の留守中に城を奪った為、重則は自刃し、これを昌幸が秀吉に訴え出たことから、小田原の役が勃発する。ただ、この小田原の役では、沼田は北方勢の進軍ルートから外れ、沼田城代の邦憲も箕輪城で防戦していることから、名胡桃城近辺で実際の戦闘は無かったようだ。そして、この小田原の合戦後に城は廃城となった。
 城は、利根川が太古より山を削り取った跡の崖を利用した城で、ほど近い沼田城とも立地条件はよく似ており、断崖を利用しつつも平場は広いという利根川沿いによく見られる崖城だが、城のある場所は、更に利根川の支流となる小流が南北をも遮って崖を成しており、三方が崖という要害である。初期の城は、前述のように駐車場となっている般若郭が主郭部で、昌幸の改修で般若郭の南の細長い峰に拡張されたと思われ、その峰の最高部先端に本丸にあたる本郭、そして南西に二ノ郭、三ノ郭が堀切を介して続く。本丸の先には、やや標高が下がってささ郭、物見郭という小郭が置かれ、物見郭には名の通り監視機能があったのだろう。三ノ郭から国道17号線方向には馬出郭があり、国道を挟んで南東の小流近くに水ノ手郭、南西に外郭があった。ちなみに、本丸先のささ郭は白井城でも同じく見られるが、どういう意味や役割を持った郭であったのかはよく分からない。
般若郭周辺の空堀 訪れた時は、時間が遅かった為に城跡近くの資料館は開いておらず、薄暮の中の散策となったが、堀切や郭跡が明確で、下草も刈られて見通しが良く、非常に良い城跡だった。特に二ノ郭と三ノ郭の堀切から般若郭の空堀へと続く堀が鋭く切れ落ちており、かなり印象深い。史跡に指定されるまでは開墾されていたそうで、郭の周囲にあったはずの2mほどの土塁が失われているのがやや残念だが、本郭やその先からは断崖下の利根川の川筋の様子が一目瞭然で、当時の城の情景や周囲の様子を思い浮かべることが容易な城である。