岩櫃城 所在地 群馬県東吾妻町
JR郷原駅北東1km
区分 山城
最終訪問日 2014/5/10
岩櫃城本丸と城址碑 武田三堅城のひとつ。
 岩櫃城の築城時期は不明で、伝わる話としては、藤原秀郷流で秀郷の4代後の兼助及び5代後の兼成が吾妻権守を称し、この頃に岩櫃に居したとする話や、その数代後の吾妻助亮が鎌倉幕府草創期に最初に居城したという話があるが、これらは伝承の域を出ない。また、吾妻氏に関しても、藤原秀郷流以外に工藤二階堂氏流吾妻氏や、源姓吾妻氏などの系図もあり、同一の家に複数の説があったのか、それとも複数の出自の吾妻氏が並立したのか、諸々含め不詳というのが実情のようだ。
 その後の吾妻氏を追うと、助亮の子助光は承久3年(1221)の承久の乱において宇治で溺死したとも岩櫃山の妖怪の祟りで死んだともいわれ、いずれにせよ助光の代で吾妻氏は一旦断絶したという。そして、同じく秀郷流の小山氏から分かれた下河辺行平の一門と思われる下河辺行家が吾妻に入って吾妻庄司行家と名乗り、子行重と助光の娘を娶わせ、行重が吾妻氏の名跡を継いだ。
 行重の子は行盛で、元弘元年(1331)より始まる元弘の乱を生き抜き、南北朝時代の初期は南朝方に与したらしい。しかし、やがて北朝に転じたようで、貞和5年(1349)に南朝方の里見氏に攻められ、城のすぐ東の立石河原で敗れてしまい、自刃したという。これにより、吾妻氏は没落し、遺児憲行は母方の叔父斎藤梢基の下に逃れたが、後に斎藤氏や上杉憲顕の後援で里見氏を滅ぼし、岩櫃城に復帰した。憲行は、母方の斎藤氏を名乗っており、戦国時代まで続く岩櫃斎藤氏の祖となるのである。
 しかし、ここでひとつ疑問が浮かぶ。家を再興し、重代の本拠に復帰したというのに、なぜ母方の斎藤を称し続けたかということである。この時代以降に梢基の飽間斎藤氏の消息が途絶えることを合わせて考えると、憲行が飽間斎藤氏の名跡をも継いでいたか、行盛の子と称する斎藤氏系の人物が姻族として吾妻氏の残存勢力を併せた為という推測ができるだろうか。だが、これ以外に、同じ秀郷流で越前にいた斎藤越前守基国の嫡子憲行が、応永12年(1405)に岩櫃城を築いて入城したという説もあり、ややこしい。この説では、背後に関東管領で上野守護も務めた上杉氏の存在があるのは明らかだが、一次史料が少ない為に詳細は不明で、両説共に史実を辿るのはなかなか難しいようだ。いずれにせよ、出自や岩櫃入部に諸説のある憲行か、もしくは憲行以降の斎藤氏時代に岩櫃城が築かれたとするのが現実的なようである。
 その後の斎藤氏は、庶流大野氏が台頭して一時は大野氏が惣領の地位にあり、岩櫃城にも大野氏が在城したようだが、やがて同じく庶流の山田憲次が大野氏を滅ぼし、斎藤憲次と名乗って惣領に就き、子憲広へと受け継がれた。ただ、この憲広の頃は比較的事跡が明確なのだが、憲広に至るまでの各代の事跡は史料によってまちまちで、中小豪族に共通する史料の少なさが影響している。
岩櫃城縄張図 この憲広の時代、斎藤氏は関東管領山内上杉氏の没落によって領土拡張を志向し、三原庄の鎌原氏と対立した結果、鎌原氏は甲斐武田氏に支援を乞い、それを知った憲広は上杉謙信に誼を通じた。これにより、上野北西部は武田家と上杉家の争いの前線のひとつとなってしまう。こうして、永禄6年(1563)に憲広は武田家臣真田幸隆の攻撃を受け、城の堅さから一旦和睦するものの、調略によって内側から崩され、10月の再度の攻撃で落城し、憲広は越後に落ちた。憲広の子憲宗は、後に嶽山城に入って再起を図るが、これも同8年(1565)に落城してしまい、これによって斎藤氏は没落したのである。
 幸隆の攻略後、岩櫃城は武田氏及び真田氏の上野北西部の拠点として海野幸光が城代となり、沼田城が天正8年(1580)に真田氏の支配下に入った後はその中継拠点となった。これらの流れから、城も改修されたと考えられ、翌々年の武田家滅亡の際には、昌幸は武田勝頼に落去先として岩櫃城を勧めたとされる。結局、勝頼は親族衆の小山田氏を頼って岩殿山城を目指し、小山田氏の裏切りによって途中の天目山で自害するのだが、もし岩櫃城に籠城して昌幸が指揮を採っていればとうなっていたか、というのは、戦国好きなら1度は空想する話かもしれない。ただ、武田家滅亡前に昌幸が北条氏と交わした手紙も残っており、単純な攻防にならなかった可能性はある。
 武田家の滅亡後、昌幸は織田家臣滝川一益に属したが、同年6月の本能寺の変で信長が横死した後、一益が北条氏に敗れて伊勢に戻ったことから、一旦は北条氏に臣従し、次いで徳川方に転じた。しかし、天正壬午の乱で甲信を取り合った北条徳川両家が、甲信を徳川領、上野を北条領として和睦すると、上信二州に跨る真田領が微妙な存在となり、やがて北の上杉景勝に近付くこととなる。こうして昌幸は大大名の三家の間を遊弋し、最終的には秀吉に従うことで家を保った。この間、信州上田城が徳川軍に、上州沼田城が北条軍に攻められており、岩櫃城は連携拠点として大いに活用されたと思われる。また、同18年(1590)の小田原の役後は、出浦盛清が岩櫃城の城代を務めていたという。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、西軍に付いた昌幸は、秀忠の軍勢を関ヶ原の本戦に遅参させるという功を挙げるが、東軍の勝利によって九度山に幽閉されてしまった。昌幸の上田領や岩櫃城は、沼田城主として東軍に付いた昌幸の嫡子信之に継承されたが、徳川家にとって忌まわしき上田城は破却されて当初は沼田城が本拠となった為、岩櫃城は引き続き中継拠点であり続けたと思われる。その後、一国一城令によって慶長19年(1614)か翌年に廃城となった。
 城は、峻険な岩櫃山の東峰にあり、堅城と謳われる城にしては山容は思ったよりもなだらかで、吾妻川に落ち込む峰筋の突端部に築かれ、南から東は吾妻川の谷が、西側は岩櫃山の山塊が防御となっている。構造としては、東西に長細い本丸を中心に、南東に馬出のような二ノ丸を置き、その更に先に傾斜を持った中城という大きな郭があった。本丸には南北に桝形が設けられ、北桝形の先には一ノ木戸から続く細長い郭があり、その北に水郭と呼ばれる段々状に整地された郭が続く。これは、恐らく武家屋敷だったのだろう。南の中腹には殿邸と呼ばれる屋敷跡と見られる平場があり、平沢集落周辺には天狗丸という出丸や柳沢城という出城もあった。
 岩櫃城へ向かうには、原町の駅のすぐ西に国道から分岐する道があり、国道の跨線橋の下をくぐって細い道へ右折し、山側へと入って行く。しばらく行くと分岐に出るが、岩櫃山への登山道と共通の為、岩櫃山への案内に従って進むと駐車場へ着くことができる。分岐から直接駐車場へ出る道と集落を通って出る道があるが、国道も含めて要所で案内が出ており、迷う可能性は少ないだろう。ただ、岩櫃山が登山客に人気な為、気候の良い休日には駐車場が埋まる可能性がある。
うねりながら竪堀となって落ち込む空堀 岩櫃城を散策してみると、最初は勾配がきついが、中城付近から先は比較的緩やかで、主郭部に平坦な地形も多く、三堅城の割にそれほどの峻険さは見られなかった。位置的には山城だが、城内部分は平山城といった感じだ。従って、同じ武田三堅城で天険の岩殿山城とはかなり印象が違うのだが、空堀や竪堀などが縦横無尽に穿たれており、普請による堅城ということなのだろう。このように至る所に土塁と堀が見られる城であり、食い違い虎口や堀切を始め、空堀が複雑な形で廻らされている様子など、構造を見て回って楽しい城である。