寺林城 所在地 岐阜県飛騨市
飛騨市役所北東11.5km国道41号線沿い
区分
最終訪問日 2017/5/20
 築城年代や詳しい事績は不明だが、大正時代に出された斐太後風土記に拠れば、最初は寺林付近の領主久米城之介の居城であったと里に伝わっていたようだ。後に、その家老玄蕃が城代となったことから玄蕃ヶ城や玄蕃城と呼ばれたが、久米氏没落によって玄蕃の家も帰農し、その後、江馬氏が進出してその家臣寺林大内蔵が居城したという。江馬氏が史上に登場して勢力を伸張させるのは南北朝時代以降で、この伝承も南北朝時代か、戦国初期頃の話と推測される。
 江馬氏は、高原郷を中心に奥飛騨の雄として勢力を拡げ、戦国時代中期には武田家、武田信玄没後に上杉軍が侵攻して以降は上杉家に臣従し、一時は越中南部にまで勢力圏を伸ばしていた。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変後に、織田家を後ろ盾としていた姉小路氏への攻撃の好機と見て高山盆地に攻め込んだ際、当主江馬輝盛が八日町の合戦で討死してしまい、総崩れとなって一夜にして滅んだ。
 この時、退却路上にある大坂峠で輝盛に殉じた十三人の家臣がいたが、その中に寺林甚四郎という名が見えており、寺林城主かそれに連なる一族の者だった思われる。この時の城の事跡は不明だが、越中東街道で大坂峠から巣山を通って高原郷に入る入口部分にある為、江馬勢総崩れによって放棄されたか、追撃で落城したと考えるのが妥当だろう。
 城は、延々と坂を下っていく途中の堀之内地区と寺林地区の間ぐらいにあり、国道41号線から山田川を挟んだ向かいの小山に築かれている。立地からして、いかにも街道監視の為の城というのが解り易い。
 訪れた時は、国道を走りながら城跡の表示を地図で確認し、城の大まかな位置は見当が付いたが、寺林の集落に入って集落西端の道から城への登山道を探したものの、表示や登山口などは見付けられなかった。草が繁茂し出す季節でもあったので、表示が隠れていたのかもしれない。先を急ぐということもあって、登城は断念した。