高原諏訪城 所在地 岐阜県飛騨市
神岡中学校南東1.1km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/20
高原諏訪城本丸と城址碑 高原一帯を領した江馬氏の居城。
 江馬氏は、平清盛の異母弟である経盛の流れとする桓武平氏というが、出自は実際には不明である。歴史上に登場するのは室町時代で、応安5年(1372)に江馬但馬四郎の名が見え、この頃から既に幕府重鎮の伊勢氏と関係があったようだ。その関係で、後の文明3年(1471)に見える左馬助は、政所執事伊勢貞宗の庶子が江馬氏を継いだものという。
 高原諏訪城に関しては、前述の但馬四郎の頃にすぐ近くの下館が構築されているのだが、高原諏訪城も同時期の築城と見られている。その後、戦国時代中期の武将時経の頃に、飛騨の有力な国人として事跡が明確になってくるが、この時経登場の少し前に下館が廃絶しており、永正年間(1504-21)に一度没落したようだ。そして、時経以降は高原諏訪城が本城となった。
 時経は、没落後の江馬氏を相続したわけだが、その後援として三木直頼の存在があったともいう。後には、直頼の子良頼に娘を嫁がせて協力関係を維持し、飛騨の両雄という形が見えてくるのだが、良頼の室が没してから両家は次第に疎遠となり、やがて対立するようになっていく。両者の対決は天文13年(1544)頃にはあったようで、三木氏が高山盆地に出兵したことが見え、同15年(1546)の時経没後は、対立はより激しさを増したが、江馬氏は劣勢に立たされたのか、三木氏の勢力が次第に伸びたようだ。
 その後、飛騨は上杉謙信と武田信玄の越後信濃間の対決の裏道の様相を呈すようになり、時経の跡を継いだ時盛は武田傘下に入ってその支援を受けている。永禄7年(1564)には、信玄は飛騨に対する統制を強め、山県昌景を高原へ進軍させ、江馬氏から人質を取った。更に、姉小路氏の名跡を継いだ三木氏が武田軍に対抗しようとした為、これを攻め、武田軍に付き従った時盛は、降伏した姉小路氏から高山盆地北東の三仏寺城周辺の割譲を受けている。その後、翌年には武田軍が越中に侵攻して椎名氏を降し、功のあった時盛は越中国新川郡の一部を与えられ、その勢力は越中にまで及ぶようになった。時盛の親武田の政策は、成功だったと言えるだろう。
本丸を囲う帯郭のような構造の二ノ丸と本丸切岸 しかし、家中には武田家に馴染まない人物がいた。時盛の嫡子とも一門ともいわれる輝盛である。輝盛は、元々が親上杉の立場であった人物で、信玄が元亀4年(1573)4月に没すると、それを謙信に伝え、天正4年(1576)には飛騨に侵攻してきた上杉氏に降った。また、天正元年(1573)とも同6年(1578)ともいわれるが、上杉軍侵攻の前後に時盛を暗殺して家中を掌握している。その後、同10年(1582)に信長が横死すると、織田氏に誼を通じていた姉小路氏の後ろ盾が消えたことを幸いに、同年10月、姉小路氏討伐の兵を挙げた。こうして飛騨の両雄は、いよいよ存亡を賭けて雌雄を決することとなる。
 この江馬氏の動きに対し、姉小路氏は小島姉小路氏や広瀬氏、牛丸氏と共にこれを迎え討った。飛騨の関ヶ原と称される両者の決戦は、八日町で行われたが、姉小路勢の伏兵による銃撃で輝盛はあえなく討死を遂げてしまう。これにより、江馬氏は総崩れとなり、翌日には高原諏訪城も陥落して、江馬氏は瞬く間に滅んでしまった。この後、輝盛の遺児時政が金森長近を頼って落ち延び、天正13年(1585)の長近の飛騨侵攻の道案内を務めて姉小路氏滅亡に貢献したが、旧領回復が叶わなかった為、同じ立場の広瀬宗直らと同年に叛乱を起こして討伐されてしまい、江馬氏は完全に滅んだ。
 城に関しては、姉小路氏時代に城が使われたのかどうかは不明だが、金森氏時代には東町城に城代が入っており、そちらが治所として使われたと思われる。同時期に飛騨の他の山城の多くが廃城となっており、高原諏訪城も廃されたのだろう。
高原諏訪城から神岡市街と下館を望む 城は、高原の盆地の東南側にあり、盆地西側の傘松城とで盆地を守る配置となっている。ただし、標高自体は傘松城の方が高い。城域に入ると、いきなり大きな堀切と段郭が連続しているが、その下にある車道自体がかつての堀切を利用している可能性も考えられそうだ。そこからしばらく行くと、東側に土塁を持つ武者走りのような地形が続くが、これは、今はダムとなっている東側の川筋の道に対する備えだろう。そこから堀切を越え、竪堀らしき地形を過ぎて主郭部の北東側に出ると、段郭が並んでおり、段郭沿いに登れば最高部に到達する。本丸は長方形に近い楕円形で、一段下がって本丸を周回する帯郭状の二ノ丸があり、二ノ丸北東部の大きめの削平部分は、居住区画だったのかもしれない。ただ、居住可能な面積自体は廃絶した下館に比べればかなり狭く、平時の館が平地に設けられていた可能性が考えられる。また、主郭部に帯郭が附帯しているのは、峻険な飛騨の城らしい特徴と言えそうだが、木曾の妻籠城も同様の構造で、場所的に近いとは言えないものの、日本アルプスを中心として何か共通する背景があるのかもしれない。
 城へは、神岡から北東へ山を越える県道484号線で容易に行くことができる。ただし、駐車スペースはほとんど無い上、県道はトラックが頻繁に通る道なので、駐車には注意が必要だ。城自体は、国指定の史跡ということで保存状態は良く、これぞ飛騨の城というのを感じることができる。下館と合わせて、江馬氏の歴史を辿ることをお勧めしたい。