墨俣城 所在地 岐阜県墨俣町
墨俣町役場北東1km県道23号線沿い
区分 平城
最終訪問日 1995/8/19
 一般に伝わる伝説では、長良川とその支流が入り混じるこの地に、かの秀吉は一夜で城を築いたとされており、一夜城とも呼ばれる。
 永禄7年(1564)に犬山城の織田信清を国外へ追った信長は、次の目標を美濃に定め、墨俣に橋頭堡となる城の築城を家臣に命じたが、佐久間信盛や柴田勝家といった織田家の重臣達による築城は失敗に終わった。この時、まだまだ身分の低かった秀吉が志願して長良川周辺の蜂須賀小六正勝などの土豪を味方に引き入れ、上流で木材の伐採と加工を行った上で筏にして流し、現地では組み立てるだけにして一夜で城を築いたとされている。
 だが、実際にはこの伝説はあくまで説話の域を出ず、史実かどうかは微妙なところらしい。そもそも、いつ頃から存在したのかは分からないが、秀吉の築城以前から墨俣には城があったようで、永正年間(1504-21)に美濃国守護代斉藤彦四郎が守護の土岐政房と対立して籠ったとされており、信長公記には、永禄4年(1561)に斉藤方だった洲俣城を奪い、信長自身が改修して在城したともあるので、史実であったとしても全くの新城築城というわけではない。また、武功夜話では、信長が信清の謀叛の為に尾張へ帰る際に破却し、永禄9年(1566)に秀吉が3日間かけて再構築したとなっているが、武功夜話の元になった前野家文書が非公開で、その信憑性の評価がされていないのも史実とされない要因のひとつである。
 だが、後の九州征伐や小田原征伐でも一夜城のアイデアが使われていることから、秀吉にとっては重要な成功体験のひとつであったと思われる。実際には、説話に見られるような劇的なものではなかったかもしれず、また、伏屋城にも一夜城の伝承があることから墨俣城が一夜城ではなかったのかもしれないが、秀吉が短期間で築城した城というのは存在したのではないだろうか。
 伝承では、秀吉は墨俣城の築城後、そのまま城主になり、稲葉山城攻略でも功を挙げたとされているが、美濃攻略における墨俣城の役割はそれほど大きくなかったようだ。その後の墨俣城は、軍事拠点だけに美濃の安定と共に存在価値が薄れ、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦の少し前に、大垣城主池田恒興の家臣伊木忠次によって改修されたのを最後に、歴史上から姿を消している。存在価値の減少で空城になって廃れたか、木曽三川の氾濫で城地が押し流された為ともいう。
 現在の城跡とされている場所は、河川の氾濫や開発で地形が変わっている為、城跡という地名をもとに推定された場所で、遺構が残っていたわけではない。また、秀吉の頃の実際の城は砦に近いもので、天守閣の登場する時代ですらないが、町のシンボルとしての意味もあって、資料館を兼ねた天守が現在は建てられている。
 館内では、秀吉が墨俣の城を建てた様子を前野家の古文書に拠って再現しているほか、江戸期の墨俣宿に関するものや、薩摩藩による長良川改修の様子も展示されている。天守閣からは周囲が一望に見渡せるが、現在でも河川の入り組む地形は当時から変化しているものの一目瞭然で、攻撃を阻みながらここに築城するには、かなりの苦労があったことが容易に想像でき、それだけに地形を逆に利用した秀吉の着想には感心させられる。