篠脇城 所在地 岐阜県郡上市
東海北陸道ぎふ大和I.C.北東2.6km
区分 山城
最終訪問日 2012/5/12
篠脇城縄張図 篠脇城を居城とした東氏はトウと読み、桓武平氏千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘に住み、地名を名字としたことに始まるという。
 胤頼は、京の警護をする大番役として上洛した際、遠藤持遠の推挙で上西門院統子内親王の武者所に仕え、持遠の娘を娶った。この上西門院や八条院は反平氏の拠点だったようで、流刑前の頼朝のほか、足利義長や新田義房が上西門院に、源行家や下河辺行平などが八条院に属しており、後に胤頼が頼朝の挙兵に参加したのは自然な流れなのかもしれない。
 この辺りの動きを追うと、治承4年(1180)5月の以仁王の叛乱時には、胤頼は未だ大番役の任にあり、乱後に任期を終えて6月末に関東へ戻ると、まず伊豆の頼朝の下へ伺候した。8月に頼朝は挙兵するも、三浦一族と合流できずに石橋山で敗れて安房に落ち、9月に千葉氏へ使者を送り、胤頼は兄で嫡男の胤正と千葉館で使者を迎え、共に父常胤を説得した結果、千葉一党は頼朝に味方することに決する。そして一週間後には、胤頼らは来攻してきた下総国司藤原親政を破り、下総国府で頼朝と合流し、10月の鎌倉入部、富士川の戦いへと繋がっていく。
 このように千葉一党は頼朝の草創期に大きな功績があり、鎌倉幕府成立に伴って有力御家人として各地に領地を得たが、胤頼は新領地ではなく千葉一党の重要拠点のひとつ東荘を譲られ、東を称した。胤頼の孫胤行は、3代将軍実朝に歌人として近侍し、承久3年(1221)の承久の乱の功で美濃国郡上郡山田荘を得、次男行氏が下向して美濃東氏の祖になったという。下向の時期は、一説に承久年間(1219-22)といわれるが、この説に従えば領地を得てすぐであり、父の代官として赴任したものと思われる。また、別の説として、胤行が大和村阿千葉に館を構えたとあるが、吾妻鏡等からは胤行が鎌倉で過ごしていた様子が窺え、下向したとしても隠退した頃である可能性が高い。
 美濃東氏は、行氏の跡を子時常が継ぎ、時常の跡は胤行の子で時常の叔父氏村が継いだ。氏村は、この篠脇城を築城し、拠点を移した人物でもある。氏村の時代は鎌倉末期で、楠木正成討伐に宗家の千葉貞胤に従って従軍したが、尊氏が幕府に叛旗を翻すと千葉一党は尊氏に味方し、建武政権で氏村は武者所に属した。この時、武者所頭人を務めた新田義貞と誼を通じたはずだが、尊氏の建武政権離脱後、千葉一党が義貞に属した一方で氏村自身の動向はよく判らない。行氏の子常重が義貞に属して討死した所伝がある一方、氏村の嫡子常顕は足利方の美濃守護土岐頼貞に従っており、どちら側でもおかしくないのである。とは言え、千葉一党が義貞に属した期間は短く、金ヶ崎城落城前の建武3年(1336)には降っており、以降は確実に美濃東氏は北朝方に属した。
篠脇城本丸 室町時代の中頃、関東で古河公方足利氏と関東管領上杉氏が対立して享徳の乱が勃発すると、宗家の千葉家中も二つに割れ、遠く離れた美濃東氏にも影響が及んでくる。この頃の当主は氏数だが、その弟常縁は8代将軍義政の側近で、管領方を支持する幕府の方針から将軍の命で康正元年(1455)に関東へ下向し、千葉家の内訌に介入することになった。この下向は10年以上に及び、その間に応仁元年(1467)から応仁の乱が起き、義政側の西軍と見なされた東氏は、翌年に美濃守護代斎藤氏の一門斎藤妙椿に篠脇城を攻撃され、氏数が少数で迎え討つも落城してしまう。これを伝え聞いた常縁は、下総で心情を歌に詠んだが、これが妙椿の耳に入り、両者で歌のやり取りが交わされ、文明元年(1469)に城が返還された。変換後、常縁は篠脇城に入って城下の寺社などを復興したが、同3年(1471)正月には伊豆国の陣へ帰っており、突貫での復興だったようだ。
 氏数の死後、常縁が家督を継いだと見られ、常縁の後は子頼数、氏数の子元胤、常縁の子常和と複雑な継承があったようだが、これら歴代の関係も系図ごとに異なり、定説を見ない。これは、後の遠藤氏による下克上で文書が失われたのと、近世大名になった遠藤氏による仮冒があった為だろうか。常和の次に登場する常慶は事跡が比較的明確で、遠藤胤縁・盛数兄弟を重用して反抗的な土豪を討伐したほか、天文9年(1540)には来攻した朝倉軍をこの城で迎え討ち、家臣に身代に合わせて岩を持たせ、攻めかかる朝倉軍に竪堀から岩を落とし、怯んだ隙に突撃して撃退している。更に翌年の朝倉軍の再侵攻では、安養寺に救援を依頼して油坂峠で撃退したという。そして、この2度目の侵攻後、常慶は防御の不安から同年に東殿山城を築いて移り、篠脇城はその役割を終えた。だが、移転から20年ほどで東氏は盛数に下克上され、滅んでしまうのである。
 城は、東氏の氏神、明建神社の向かいの篠脇山にあり、北麓の堀となる栗巣川の川岸上には居館があった。居館には土居を廻らせていたといい、居館と詰城という中世色の濃い構成だったようだ。この居館跡の庭園は、ほぼ完全な形で発掘されており、今は国の名勝に指定されている。訪れた時は日暮れも近く薄暗さがあったが、庭園や神社を含めた周囲一帯は独特の雰囲気があり、史跡を偲ぶに足る古色の趣が漂っていた。
 居館跡から延々とつづら折になっている登山道を登ると、竪堀らしき地形が見え始め、やがて城の切岸が見えてくる。ここで大手門道という表示に従って左へ進むと、臼の目堀ともいう無数の竪堀が待っていた。連続する畝状の竪堀で、ここが最大の見所だろう。通常、登山道上の堀切は下草も無く判り易いが、登山道から離れる竪堀は藪化し易く、見分けにくい城も多い。だが、この城の竪堀は、これでもかこれでもかと現れ、城の東西を埋め尽くしていた。更に道を進むと、かつての大手虎口を越え、南側から本丸へと直接入れる道となり、本丸の南側には大きな堀切が穿たれ、人工的な台地状の地形が見える。この本丸南側の搦手には、予想通り二重の堀切を介して出丸があるという。
臼の目堀とも呼ばれる竪堀群 主郭部分は、南側の本丸部分と、本丸の東から北にかけての二ノ丸に分かれ、この2つは高低差が1mから2m程度である。二ノ丸の北東側にやや下がって腰郭があるが、大手道が通じており、武者溜のような機能があったのだろう。また、水の手は主郭部北西側にある。防御設備としては畝状竪堀とこの腰郭、本丸南東端の土塁程度で、戦国前期までの城らしく凝った構造物は無かった。朝倉軍来襲時も、竪堀とそれを使った攻撃が防御力のかなりの割合を占めていたと思われ、改修拡張のしにくさや侵攻による城下の荒廃が城を移す要因だったのだろう。