関ヶ原古戦場
所在地  岐阜県関ヶ原町
JR関ヶ原駅西北800m
最終訪問日  2002/11/13
幟に囲まれた決戦地碑 慶長5年(1600)9月15日に、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に担いだ石田三成率いる西軍が激突し、東軍が勝利して江戸幕府創設の端緒となった関ヶ原の合戦の古戦場。
 豊臣政権内では、古くから福島正則に代表される武断派と、石田三成に代表される文治派との対立があったが、緩衝帯の役目を果たしていた宿老格の蜂須賀正勝や秀吉の弟秀長が相次いで死去し、秀吉の老害ぶりも手伝って両者の確執は決定的なものとなっていった。
 慶長3年(1598)の秀吉死後、五大老筆頭の家康は武断派を取り込み、武断派に近い北政所の支持も得、最大の実力者として行動し始めた。これに対し、五大老のひとり前田利家は、公然と家康を批判し、文治派もこれを支持したが、両者の和解直後に利家は病死し、子利長は家康に謀叛の疑いをかけられた末、服従した。
 利家の死後、武断派は三成の暗殺を試みるが、家康の仲介で和解し、三成は五奉行の職を辞して佐和山城に蟄居した。これに危機感を持った文治派は、五大老のひとり上杉景勝の重臣である直江兼続と連絡を取り、景勝は会津で軍備の増強を図る。これに対し、家康は上洛と釈明を要求するが、直江状に見られるような強硬な態度を示した為、上杉討伐の軍を発した。この辺りの家康の行動からは、最初から三成がターゲットだったわけではなく、前田家にしろ景勝にしろ、どうにかして政権内に争いを作り出して分裂させるという思惑を持っていたように感じられる。
 家康率いる討伐軍が大坂を去ると、三成は文治派と協力して大坂城に入城し家康を糾弾、更に毛利輝元を総大将に迎え、丹後田辺城や伏見城などの東軍諸城を攻撃した。一説に、家康が大坂を空けたのは三成に挙兵させる為との説もあるが、ともかくこれを知った家康は下野小山で評定を開いて西上を決め、味方の諸将を先に上らせ、上杉軍への備えに次男結城秀康などを置き、自らは江戸城で後方の足固めと調略に専念した。
 その後、武断派中心の東軍先行隊は美濃に入って織田秀信の岐阜城を落とし、西軍も大垣城を根拠地として東軍の先鋒隊と戦うなど、美濃やその周辺を中心とした動きになる中、いよいよ家康の三男秀忠率いる部隊が中山道から、家康の部隊は東海道から西上を開始した。だが、秀忠の本隊は真田昌幸の上田城攻略で苦戦し、これを落とせないばかりか、関ヶ原の本戦にも間に合わなかった。ただ、これには、遅参を理由に徳川家本隊の兵力を温存し、万が一、関ヶ原で敗れた場合に備える為だったとの説がある。
 ようやく美濃に入った家康は軍議を開き、西軍の根拠地大垣城を無視して佐和山城を攻略し、大坂城へ向かうとの方針を決め、意図的にこの情報を西軍に流した。これを知った三成は夜襲を主張する諸将を抑え、関ヶ原で迎え討つ方針を示し、夜の間に関ヶ原へと転じた。一般には、三成が野戦で決着をつけたい家康の思惑に乗せられたとされているが、戦闘開始時の配置を見る限り、三成にとっても関ヶ原での戦いは想定内だったように思われる。それほど、西軍は地の利を押さえ、圧倒的に有利な陣形を敷いていた。
 両軍の兵力には諸説あり、東軍7万4千対西軍8万4千であったとも東軍10万4千対西軍8万2千であったともいわれるが、両軍合わせて15万以上の兵力が激突したのは間違いない。戦闘開始は午前8時頃で、朝霧の晴れる頃に松平忠吉と井伊直政が抜け駆けして宇喜多秀家隊へ発砲、そして本来先陣であった福島正則が遅れまじと続き、これに宇喜多隊が応射して開戦した。午前中は、石田三成配下の島左近勝猛や蒲生郷舎、明石全登などを擁する宇喜多秀家隊、大谷吉継隊が奮戦し、また、地の利を得たこともあって、参戦兵力の少ない西軍が善戦していたが、南宮山の毛利軍は麓の吉川経家隊が進軍しない為に動けず、松尾山の小早川隊も三成の上げた狼煙に反応しなかった。また、主戦場から近い島津義弘隊も何かと理由をつけて参戦を断り、不気味に沈黙していた。
 その頃、家康は苦戦気味の東軍全体の士気を高める為、本陣を桃配山から前線へと移していた。吉川経家と小早川秀秋から内応の約束を取り付けていた家康だったが、やがて一向に動かぬ小早川隊に痺れを切らし、松尾山へ向かって銃撃を始めた。一方、秀秋はこの銃撃まで寝返るかどうか迷っていた。山を下れば東軍の脇腹を衝くことも西軍陣形の片翼を一気に潰せることも出来るという、勝利の鍵を握る位置への布陣が迷いを深くしたのかもしれない。しかし、この銃撃で決心が定まり、小早川隊は味方であるはずの大谷吉継隊へと雪崩れ込んだ。これに対し、早くから小早川隊に疑心を持っていた吉継は、冷静に銃撃を浴びせて侵攻を食い止めたが、寝返りが隣接する赤座直保や小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の隊へ連鎖的に波及すると、一気に2方向からの攻撃に晒され、たまらず壊滅した。これを契機として一気に戦況は東軍有利へ傾き、宇喜多隊、石田隊も劣勢に追い込まれて相次いで壊滅、戦いは東軍の勝利で終結した。
 合戦では、奮戦した勝猛や吉継は討死、もしくは自害し、退却して伊吹山中に逃れた三成や行長も後に発見されて処刑された。だが、島津義弘だけは僅か千足らずの兵で敵中突破し、家康本隊の横をすり抜け、甥豊久や長寿院長淳を失いながらも退却に成功した。この時、義弘を追撃した井伊直政や松平忠吉は負傷し、後年の死去の原因になったといわれ、この猛烈な戦いぶりが島津家を減封すらなしに存続させた一因ともなった。
 関ヶ原の合戦の主戦場は、JR関ヶ原駅の西北一帯で、そのエリアの中には決戦地碑や開戦地碑が建っている。決戦地碑が建つのは、石田三成が陣取った笹尾山を目前に控える、関ヶ原の戦場の中で最も激戦が繰り広げられた場所で、三成退却によって勝敗が完全に決した場所でもある。付近一帯にはのどかな田園風景が広がり、かつて戦場だったことが嘘のようだが、国道21号線の中山道と国道365号の北国脇往還道が交差し、今も昔も交通の要衝である事に違いはなく、大軍を集結させ易い上にそれを展開できる野があるという条件は変わっていない。