桜洞城 所在地 岐阜県下呂市
JR飛騨萩原駅北西700m桜谷公園南すぐ
区分 平山城・崖城
最終訪問日 2017/5/19
桜洞城跡入口に建つ城址碑 飛騨南部を掌握していた三木氏の居城。
 三木氏はミツキと読み、そもそもは佐々木京極氏、あるいはその守護代である多賀氏の被官である。血統としては、宇多源氏佐々木氏流多賀氏の庶流ともいわれるが、多賀氏自体は多賀大社を氏神とする在地豪族か中原氏という説が有力で、また、三木氏も傍証から藤原姓が有力とされており、佐々木庶流でも多賀氏庶流でもないようだ。ただ、明確に血統を示す史料は無く、正確な系統は不明という。
 南北朝時代以降の飛騨は、南朝方で国司であった姉小路氏と武家方の守護であった京極氏の勢力争いが、その歴史のほとんどを占めるが、次第に京極氏が優勢となった一方で、姉小路氏は内部分裂を起こして三分した。このような情勢の中、飛騨の支配は守護代である多賀氏に任され、これに伴って三木氏も飛騨国益田郡竹原郷に入部したようだ。その時期は、一説に応永18年(1411)に古川姉小路尹綱が他の小島姉小路家と小鷹利姉小路家を攻めた動乱の鎮圧の際ともいう。ただ、この時、入部したのが後述する三木久頼の父正頼とされるが、久頼の討死年代から考えて父子では開きがあり過ぎ、入部前後の当主や年代については、伝承程度と捉えるべきかも知れない。
 その後、文明3年(1471)に久頼が古川姉小路基綱との合戦で討たれた事が見えるが、当時は応仁の乱と言う大乱の最中で、更に前年から京極騒乱と呼ばれる家督争いも起きており、京極氏の有力家臣である多賀氏も一族を二分して争っていた。久頼は、その一方の雄で飛騨守護代でもある多賀清直の命で動いていたらしく、姉小路氏には、対立する東軍からの支援があったようだ。
 久頼は討たれたが、京極騒乱で京極氏と多賀氏の勢力が衰える中、その死後も三木氏の勢力は伸長し、大永元年(1521)の久頼の孫直頼の時代には現在の高山市街中心部である三仏寺城にまで進出していることが見える。また、桜洞城も、この直頼が築いたという。ただ、一説に桜洞城は久頼以来の居城で、直頼とその子良頼の時代に完成したといもいわれる。
明確に残っているL字型の空堀 その後、直頼は、在京する古川姉小路家当主に代わって現地代官として勢力を蓄えた家臣古川富氏に対し、小島、小鷹利の両姉小路家の協力を得て古川城を攻めて富氏を討ち、また、奥飛騨の雄江馬氏とも争うなどして、勢力を固めて行った。直頼の子良頼(良綱)の代には、小島姉小路家と結んで他の二家を没落させ、やがて永禄元年(1558)に良頼が飛騨守の叙任に成功し、翌年には子頼綱が飛騨国司に、更に翌年には姉小路の名跡継承も許されている。
 こうして、姉小路家を乗っ取った良頼は、名実共に飛騨の最大勢力となったが、飛騨は強大化した武田信玄と上杉謙信という2大勢力の信濃越後間の戦いの裏道とされた感があり、越中への連絡路という形で武田軍の侵攻を受けた。これに対し、良綱は上杉方に誼を通じていた為、永禄7年(1564)に武田傘下の江馬氏に合戦を仕掛けたが、戦いに敗れ、領土を割譲した上に臣従している。とは言え、元亀元年(1570)には頼綱を上洛させて信長と誼を通じるなど、独自外交は健在で、元亀3年(1573)には上杉氏の越中出兵要請に応えるなど、勢力の狭間ならではの行動を取り続けた。
 頼綱の代になると、信長の与党としての活動が目立つようになり、多彩な外交は息を潜めるが、内的には上杉派の国人領主を次々に滅ぼし、親族へも躊躇はしなかったようだ。このような背景の中、頼綱は高山盆地に松倉城を築き、桜洞城から居城を移している。いよいよ、飛騨一国統一の意思表明でもあったのだろう。
 高山城へと居城が移された後の桜洞城は、嫡男信綱が城主となり、家督を継いだが、同年には謀反の疑いで松倉城で謀殺されている。何らかの方針対立があったものと思われるが、移譲からの期間が短く、父子対立にしてもやや特異な印象を受けるが、実際の所はどうだったのだろうか。
 その後、桜洞城は、雪に覆われてしまう山城の松倉城の代わりとして冬に使われ、冬城と呼ばれたが、信長の後継者争いで秀吉と対立する佐々成政に加担した為、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近に攻撃され、落城した。長近は支城として翌年に萩原諏訪城を築いた為、城はそのまま廃城になったという。
 城の構造は、飛州志に東西144m、南北180mの方形とあり、周囲を空堀で囲い、特に東から南に掛けては二重であったとされるが、形状的には明らかに居館である。雰囲気的には、江馬氏下館と似ており、広い削平地を持つ崖城的な居館と背後の峻険な詰城という、飛騨の標準的な本拠城であるが、肝心な詰城の存在は不明という。
石垣の痕跡を示すように石材が多く転がる土塁跡 飛騨萩原駅の北の桜谷公園が、目印として最も近い上に駐車場もあり、公園から階段で段丘上の城跡へ行くことができる。城跡自体は、残念ながらほとんど遺構を残しておらず、かつての主郭部と思しき部分は農地になっており、鉄道開通の際にも削られたようだ。遺構としては、L字型の空堀が残っているほか、浅くはなっているものの堀と土橋の組み合わせが確認できた。また、石垣の痕跡も確認できる。ただ、これだけでは縄張を想像するのすら難しく、かつて飛騨随一の勢力を誇った三木氏こと姉小路氏の居城としては、あまりにも寂しい。