鷺山城 所在地 岐阜県町
県道78号線沿い鷺山小学校前
区分 平山城
最終訪問日 2002/11/13
本丸跡の城址碑 伝承では、鎌倉時代の直前、文治3年(1187)に佐竹常陸介秀義が築城したという。
 その後、城の記録は途絶え、室町時代には美濃国守護職にあった土岐氏の所有となり、土岐一族が城主となっていたというが、詳しいことは分かっていない。
 土岐氏最後の美濃守護職にあった土岐頼芸は、永正16年(1519)にこの城を修築して居城とし、政頼とも頼武ともいう兄を追放して守護となった後は川手や枝広に守護所を置いた。一説には、長良川の洪水などもあり、守護所から再びこの鷺山城へ戻ったともいわれる。その後、頼芸は土岐家代々の詰城であった北にある大桑城へ転じたが、天文21年(1552)年には斉藤道三に追放された。
 土岐氏を滅ぼし、父子2代に渡る下剋上で美濃一国を手に入れた道三であったが、隣国尾張で威勢を振るった織田信長の父信秀との争いなどがあり、なかなか国外に勢力を拡げることはできなかった。やがて、娘の帰蝶を信長に嫁がせて織田家と同盟を結び、義龍に家督を譲って隠居した道三は、この鷺山城を隠居城とした。だが、道三は、当主として稲葉山城を本拠とする義龍と対立し、義龍が道三の可愛がっていた2人の弟を討ったことを知ると、この城から北野城へ退いて軍を整え、弘治2年(1556)長良川河畔で戦い、有名な信長への譲り状を書いて敗死した。そして、城を守っていた石谷対馬守も討死し、城はこの合戦の後、廃城になったともいわれている。
 鷺山は標高68mながら、お椀型の山容で中腹は峻険になっており、平野にある独立丘陵として絶好の築城地に見えるが、高度成長時代に工事用の土砂が採取されたらしいので、どれだけ戦国当時の地形を保っているかはわからない。頂上部分には平坦な地形があって、本丸跡と思われる削平地と、そこから高低差のあまりない2段の平坦地が認められるが、この頂上部は工事などで手が入った様子もない為、恐らくこの3つの郭が主郭を成していたと思われる。ただ、道三は麓に庭園を持った居館を営んだと史料にはあるのだが、該当地の発掘調査ではその形跡はなかったらしい。
 現在は、住宅地の中にポツンと山が残っている状態で、遊歩道も整備されていて、地元の人の良い散策路となっているようだ。また、南麓にある北野神社には、宅地造成の際に発見された礎石と見られる岩がある。