大垣城 所在地 岐阜県大垣市
大垣市役所北東500m
区分 平城
最終訪問日 2002/11/13
大垣城天守と本丸隅櫓 大垣城は応仁年間(1467-69)にはすでにあった平城で、この地の代官職をしていた大垣氏が築城したらしい。築城当初は東大寺城といっていたが、大垣氏の居城であることから、いつしか大垣城と呼ばれるようになったという。
 大垣城が本格的な城として機能するようになったのは、明応9年(1500)の竹腰尚綱の時とも天文4年(1535)の宮川安定の時ともいわれるが、いくつか説があり、はっきりとは判っていない。ともかく、この頃は小規模な城であったようだ。尾張の織田信秀が天文13年(1544)に美濃へ侵攻した際には、尚綱の子重直が居城していたが、織田勢の攻撃で陥落し、織田信辰が城主となっている。その後、しばらく後に斎藤道三が城を奪い返し、重直の子尚光が復帰したが、尚光は道三が子義龍に敗れた長良川の合戦で討死し、代わって大垣城には氏家直元が入った。
 直元は、西美濃三人衆と呼ばれた有力家臣のひとりで、卜全という号がよく知られている。大垣城へは、長良川の合戦があった永禄2年(1559)から入り、城を大規模に拡張して西美濃の抑えとなっていた。だが、尾張を制した信長が北上して美濃に侵入すると、卜全は同じく三人衆に数えられていた安藤守就や稲葉一鉄良通と共に信長方に転じ、姉川の合戦などで活躍する。
 その後、卜全は長島攻めの際に討死した為、家督は嫡男の直通が相続し、引き続き大垣城主となっていたが、本能寺の変の翌年である天正11年(1583)頃に没したとみられ、その弟行広が家督を継いで城主となっていたようだ。つまり、同年の賤ヶ岳の合戦の時に転換点となった織田信孝挙兵の時の大垣城主は行広と考えられ、行広から報を受けた秀吉が美濃へ行き、更に大返しして賤ヶ岳の合戦で勝利を収めたということになる。
 賤ヶ岳の合戦後、大垣城は信孝の旧領の一部と共に池田恒興に与えられたが、恒興は同12年(1584)の小牧長久手の合戦で嫡男元助共々討死してしまった為、次男輝政が家督を相続した。輝政は、翌年には岐阜城へ本拠を移すものの、その後も西美濃の拠点として大垣城は存続している。輝政の後は、羽柴秀次、羽柴秀長、加藤光泰、一柳直末、羽柴秀勝が相次いで城主となり、一柳直末の時の天正13年11月(1586.1)に天正地震で倒壊焼失した為、秀吉の命で本格的な近世城郭に改修されたといい、四層四階の天守はこの直末が築いたとも、秀勝の次に入部した伊藤祐盛(盛景)が築いたともいう。
 祐盛の子は盛宗(盛正)で、祐盛の没後に大垣城主となっていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、石田三成の依頼で大垣城が西軍の根拠地となったことから、城は関ヶ原の合戦を語る上で欠かせない存在となる。
 関ヶ原前夜、西軍陣営が家康の本陣を衝くかどうか大垣城で議論している間に、東軍が大垣城を迂回して佐和山城を直接衝くかのように西に動き始めた為、急いで関ヶ原に先回りして陣取ったのは有名な話だ。ただ、この両軍の動きには諸説があり、家康が苦手な城攻めではなく野戦に持ち込む為に行軍したというのが一般的だが、石田三成が陣を構えた笹尾山には用意周到な土木工事が施されていたことから、もともと三成にとって想定内の行軍であったという説もある。それはともかく、この関ヶ原の合戦本戦では西軍が敗北し、当然ながら大垣城も東軍の攻撃を受けた。城内では、本戦の敗北で留守を務めていた諸将に動揺が広がり、高橋氏や秋月氏、相良氏などが寝返る中、三成の女婿である福原長堯(直高)は抗し続け、最終的に城兵の命と引き換えに降伏開城している。このように、関ヶ原の本戦前後の重要な場所となった。
 関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)から石川康通が入り、久松松平氏、岡部氏、久松松平氏と頻繁に藩主が入れ替わったが、寛永12年(1635)に戸田氏鉄が摂津尼崎から移って以降は、新田開発や治水工事によって安定し、戸田氏が維新まで続いている。
江戸時代初期の縄張図 維新後、石垣や堀などは破却や埋め立てで失われ、本丸と二ノ丸以外の城地は市街化したが、四層四階という珍しい構造の天守は残り、昭和11年に国宝に指定された。しかし、惜しくも空襲で焼失してしまい、現在は昭和34年に復元された天守が資料館を兼ねて建っている。ちなみに、郡上八幡の模擬天守は、まだ存続していた頃の大垣城天守がモデルらしい。
 現在は、南北に並ぶ本丸と二ノ丸跡が小さな動物園を持つ公園として残り、市街地の中でのんびりした憩いの場となっている。防衛の要であったはずの入り組んだ堀は、水門川が今も健在である以外は埋め立てられており、公園周辺の道に面影を何とか見出せる程度でしかないが、往時の姿を道から想像するのも楽しい。